弐(3)



 そこにいるのは明らかにちがう生き物だった。
「おまえも同じだ、大津。おまえはわたしを殺しにきた。しかし、迷っている。
 選べ、大津。
 生か、死か。
 おまえは、その自由な手足に枷をはめられて生きてゆけるか?
 決して後悔しないか?
 失うものの大きさを、夜毎の悪夢を、恐れはしないか?
 おまえの迷いはきっとわたしを悪霊にする、それでも……!
 絶対の自信が持てないのなら、決して求めてはならない。今、ここで即座にわたしの血を流すことができないのならば、決して求めてはならない。後悔と、苦悩の一生を怖れるならば、決して行動してはならない。
 もう一度言う。今しか機会はない。逃げ道もすべて用意されている。今なら、おまえはだれに咎められることもなくわたしを殺し、玉座に登ることができる」
 大津は、自身そうとは思わぬまま、草壁に見惚れていた。初めて見る、その激しさが、大津をゆさぶった。
「草壁……」
 その時、草壁が動いた。
「おまえにできないのなら、わたしがやる……!」
 草壁は叫んで大津のふところから刀子をつかみ出し、鞘を払うが早いか、自身の胸に突き立てようとした。しかし、一瞬大津の手の方が早く、刀子は鞘を払われたまま、二人の間に落ちた。
「大津……、なぜだ……」
 しかし、そう聞きたいのは大津自身だった。
 ――おれは、なぜ……。
 止めたのだろうか?
 じっと大津を見つめる草壁の顔、いまはもう元の気弱な皇太子の顔を見ながら、大津は考えた。
 ――あのまま放っておけば、草壁は死に、おれは玉座に登ることができたというのに。草壁よりも、おれのほうが玉座にふさわしいというのに。
 事実、父の愛も、希望も、何もかも大津のうえにあった。もしも、母・大田皇女が生きていれば、皇太子と呼ばれたのは大津だったはずだ。
 ――もしも……。
 すべてが空しい仮定にすぎないとしても、その希望こそが大津の拠り所だった。
「うそだ、大津。何もかも、今、わたしの言ったことは、何もかも全部、うそだ」
 草壁が言った。
「すまない、わたしはおかしい。狂っているのかも知れない。あの方の枕辺で、あの方が口にするうわごとを毎日のように聞いているうちに、わたしは狂い始めたのだ。
 わたしがおかしいのだ。
 おかしいのはわたしなのだ。
 天渟中原瀛真人天皇は死んだ。すべては、かの偉大な帝王とともに闇に葬られるのだ。それこそが……」
 ふいに草壁は自身を抱きしめ、大津の胸にその身体をぶつけるように預けてきた。
「大津、頼む、わたしを殺してくれ。わたしは恐ろしい。何もかもが恐ろしい。もういやだ。わたしには耐えられない。皇太子という重責、おまえの目、わたしに向けられる憎しみの目……!」
 草壁の手が強く大津の服をつかんだ。震える細い肩。
 大津は、その肩を抱いた。
 それは、壬申の戦が始まる前、大津京をかろうじて脱出した大津を、桑名で迎えた、十歳になった大津を一目ぼれさせた美しい従兄だった。
 あの、壬申の戦が始まろうとするとき、父は、その息子たちを大津京から脱出させた。大津もまた、そのひとりだった。一刻でも早く大津京から離れるために、きちがいのように馬を走らせた。ようやく、桑名についたときには精も根も尽き果てて、そのまま意識を失ったのだ。
 身体中が痛かった。夜には高熱が出、大津は生死の境をさまよった。その大津のかたわらで、ずっと手を握っていたのが草壁だった。大津には、それが美しい少女に見えた。それが実は草壁であると知ってからしばらくは大津は草壁をまともに見ることができなかった。
 ――そんなことは、長いこと忘れていた……。
 成長するにつれて、他人が大津と草壁を隔てていった。その隔たりは、大津が政治にじかに携わるようになってからは、なおさら大きくなった。知らぬうちに、大津は草壁を憎むようになった。その主な原因は、草壁本人と話をすることすらなくなってしまったことにあったのだと、いま初めて大津は思い当った。
 肌を寄せ合うと、草壁は、やはり以前と変わらぬ気弱な従兄であり、異母兄だった。
「夢を見る」
 草壁の背にそっと腕を回して、大津は言った。
「おまえを殺す夢だ……」
 大津は、草壁が腕の中で小さく反応する気配を感じた。
「赦してくれ、助けてくれと叫ぶおまえをめった斬りにする夢だ……。
 おれは、一撃でおまえを殺すことができず、何度も何度も剣をふりかぶる。
 何度も何度もふりおろす。
 おまえは血の海のなか、それでも息絶えることなく、ついにはおれはおまえのその端正な白い顔に切りつけようとふりかぶり、……いつもそこで目を覚ます。おれは、ついにおまえを殺すことができない……」
 ふいに大津は激情を押さえかねたのか、草壁の細い身体を抱きしめた。
「できない、草壁。おれにはできない……!」
 大津は、思い出した。
 すべての介在物をとり除いてみれば、大津のなかにあるのは草壁に対する、こどものころの純粋な愛情だけだ。守ってやらなければと思い続けていた、その思い。
「大津…!?」
 力をこめ、骨も砕けよとばかりに大津は草壁を抱きしめた。
 母の死とともに引き離された半身、祖父のもとに引き取られた大津と、父のもとに残った草壁と。かれらが再会するのは、壬申の年の秋になった。その再会も束の間、二人は周囲の思惑から再び引き離されてしまった。
 その半身を今、その手に抱いている。触れ合った肌を通してぬくもりが伝わる。
 大津はゆっくりとそのくちびるで草壁のくちびるをおおった。
「……!!」
 草壁は驚き、大津をもぎ離そうとした。
「やめ……てくれ……」
 わずかに離れたくちびるから草壁の哀訴の言葉が洩れる。しかし、大津はかまわず、さらに深くくちびるを合わせた。
 ――草壁……!
 それは、長い間求めていたものだと、大津は確信した。
 強く弱く、吸う。歯を当てる。
 その甘美さは、ことばにならなかった。手加減することなど、思いもよらなかった。大津は、思うさまそのくちづけをむさぼった。
 草壁の抵抗は次第に小さくなり、やがてぐったりとその身体を大津にあずけてきた。大津のくちづけに答える素振りが見えはじめる。
「お、おつ……」
 ゆるく崩れかけた草壁の髪をすくいあげ、大津は自分の額を草壁の額に押し付けた。自然とくちびるが離れる。
「な……ぜ……」
 固く目を閉じて、草壁はうめくように言った。
「なぜ、わたしを呼び覚ますのだ、大津」
「草壁……?」
 大津が言葉を発するよりも早く、今度は、草壁のくちびるが大津のくちびるに押し当てられた。先刻のくちづけよりもずっと激しく、草壁の舌が大津のくちびるを割り、大津のそれに絡みついた。激情のままに交わす、愛し合う者たちだけが味わえるくちづけ。嵐のような時が、大津を押し流した。
 小さな音を立てて大津のくちびるを離した草壁のくちびるが、まぶたに移った。睫を揺らす草壁のかすかな息。そして、その白いのどが大津の前にさらされる。大津はそこにくちびるをあてると、強く吸い上げた。そのまま、くちびるを下へとずらしてゆく。
「もう、何年になるだろう。大津……、わたしはずっと……ずっと待っていた……。こうしておまえを抱きしめ、おまえと……、大津……!!」
 あとは言葉にならなかった。草壁の手が、大津の頭を抱えこんだ。大津はそれにこたえるように草壁を抱きしめ、押し倒した。
「大津……、夜が明けるまでの、それまでの……」
 うわごとのように、擦れた声で草壁が言った。
「夜明けまでは長い……時間は十分にある……、草壁……」
 自分にいいきかせるように、大津は言った。そして、上着に手を掛ける。それを脱ぎ捨てると、大津は草壁をその膝に横抱きに抱き上げた。
 何か理由も定かでない不安が大津のなかにある。相手が草壁であることが、男であるということが、かれをうろたえさせているのだろうか。しかし、身体を離すことはもはや不可能だった。
 衣服をくつろげると、薄い胸に、小さな突起が浮いている。大津は、それにそっと触れた。草壁の身体が一瞬はりつめた。大津は、そのまま、それを指先で転がす。
「草壁……」
 草壁は、耐えるように目を閉じ、額を大津の肩に押しつけてきた。
「な、んだ……?」
 胸に触れた大津に反応して息をつめた草壁の声は上擦っていた。
「おまえは、側女を持たないのか……? 阿閉皇女以外にうわさを聞かないが……」
 閨の睦言にしてはひどく間の抜けた話題だった。同じ男とは思えないほどにやわらかな手触りが、大津にある錯覚を覚えさせる。今までに抱いてきた女たちこそが本当は男で、自分は今、はじめて本当の女に触れているのではないだろうか? 次第に草壁の要に近づきながら大津は思った。
「草壁……?」
 返事を促すように、大津は草壁に触れた。
「あ……、あ、まり興味が、ない。それに、阿閉はよく尽くして、くれる。お、女はあれ一人で、ああ、大津……。第一、この身体では、そうそう通えない」
 草壁は、大津の手を次第に自身の中心に導きながら、喘ぎ喘ぎ言った。
「大名児は……?」
「石川娘女のことか……? 母上がお気に召していたようだが……たぶん大津に対抗せよというつもりもあったのであろう。おまえは色好みで有名だから」
 草壁は喉に絡ませるように笑った。
「そんなことがあるものか……、おれは……」
「山辺皇女は泣いているのではないか?」
 途絶えた愛撫に不満げな顔もせず、草壁は笑っていた。
「山辺のところには四日に一度は通っている。第一、あれは今、懐妊している」
「懐妊……?」
 草壁の表情がかすかにくもった。大津は、再びその胸に手を這わせ、くちびるを首筋に寄せた。
「おれには、二人目の子だ。今度は皇女がいいな。山辺に似て、優しく、情の深い女の子が……」
「大津……」
 草壁は小さく言って、大津の身体を押し退けようとした。
「どうした、草壁」
 しかし、大津が強引に抱きしめると、草壁はあきらめたように力を抜いた。
「……、なんでもない……、なんでもない。……大津、抱いてくれ、強く。もう二度と離れずにすむように……」
「草壁……」
 言われるまでもなかった。大津はまだ残る草壁の衣服を乱暴に取り去り、自分もまた脱ぎ捨てた。





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