弐(2)
「看取ったのはわたしと母上だった。天皇は、苦しんで苦しんで、血を吐いて、血の海の中で息を引き取った。死に顔は、苦痛そのものだった。悔いを残したまま、逝かねばならなかったあの方は、最後の最後に母上さえ裏切ったのだ」
しかし、大津の耳にはその言葉は聞こえなかった。
――……。
部屋にたったひとつ、ともされた小さな灯り。それは高価な香料のなかに獣脂の匂いがかすかに混じって独特の香りを作っていた。その中に浮かぶ草壁の小さな顔、夜着をまとった女のように細い身体。
草壁が、はずかしげにくちびるを噛み、夜着の襟を掻き合せた。その仕草が妙に艶めいて、大津をうろたえさせた。淡い草色の絹のそれは、晩秋にふさわしく厚みがあったが、それでも草壁の身体の線をあらわにした。
奇妙な衝動が、大津を襲った。その衝動はしばしば見る夢を思わせ、大津は思わず首を振った。
「どうした、大津?」
草壁の手が大津の腕に触れ、その目を覗き込んだ。
「離せ!!」
大津は叫んで草壁の手を振り払った。
「大津」
払われた手を中途半端に宙に浮かせたまま、草壁は大きな目をさらに見開いて大津を見た。
――男か、本当に……?
大津は顔をそむけ、黙り込んだ。と、ふいに明かりが消えた。
「……!」
全身が緊張した。再び、『罠』ということばが大津をとらえる。
――だれか、いるのか……?
「あまり大きな声を出さないでくれ。舎人は近くにはいないが、危険だ」
草壁の声は、小さかった。その身体を避け、いつでも逃げられるよう、全身の筋肉を緊張させる。もしも、罠だとすれば、しかし、この距離、逃げることはできなくとも、草壁を殺すことはできる。草壁を殺せば、皇后は、どう出るだろうか……?
――第一皇位継承権は、おれのものになる。それでも、あの女傑は、おれを避けるだろうか……?
「……大津、なぜ、来た……?」
「え……」
ふいに肩を捕まれて、大津はわれに返った。
「この宮中で、どんな陰謀が企まれているか、知らないおまえではないだろうに」
振り払おうとしたが、草壁は指先が白くなるほど強くつかんで離さなかった。
――草壁……!
女が男をさそうように、草壁はその頭を大津の胸に寄せた。草壁の熱を帯びた身体が大津の身体に触れる。
「もし、やって来たら、殺される、そうは思わなかったのか?」
熱い息が、衣服ごしに、大津の胸をくすぐった。
――!
大津は、自身の身体の変化に気づき、さっきの衝動が、明らかに女に対して感じる衝動と同じであることに慄然とした。
「現実に、ここは見張られている。――皇太子に害なすものには容赦しない、それが至上命令なのだ。ここまで忍んできた、それだけで、おまえは罪人だ。ここで今すぐ切り捨てられても、おまえには何も言えない。ここに住むものは、皇太子のため、その大義名分で動いているのだ、から……」
言いつのった草壁は、突然、激しく咳き込んだ。
「草壁!」
咳の振動で跳ね上がった身体を、無意識に抱き止めた。
「大、丈夫……、い、つもの、ことだ」
咳にまぎれながら、草壁は言った。その目が、心配するなと言っている。
しかし、大丈夫というその言葉が、言うそばからうそになった。激しい咳の発作は、止む気配がなく、大津は、どうすればいいのかわからないまま、草壁の背を撫でた。
発作など、日常茶飯事なのか、だれもやってくる気配はなかった。異常なほど手薄な警備、まるで無人ではないかとさえ思われる内裏で、大津はその腕に憎い異母兄を抱いている。
それは、不思議な感覚だった。
――草壁……。
長い発作も、次第に治まっていった。しかし、大津は、草壁の背を撫で続けた。細い、細い身体。しかし骨張ってはおらず、やわらかい感触。草壁の手もまた、大津の胸に置かれていた。まるで、恋人同士の抱擁のように、二人は動かなかった。
と、草壁の肩が驚いたようにゆれた。
「大津。おまえは、登極したいのか……?」
草壁は、大津の胸に顔を伏せたまま、言った。
「……」
「沈黙は、肯定の返事と、とっていいのだろう?」
大津は、ようやく咳の治まった草壁の手が、懐中の刀子を探り当てたのを知った。草壁は、それを大津の衣服ごしにやわらかく撫でた。そのとき、大津の背に痺れるような鋭い痛みが走った。
――……!
「大津、おまえは時の流れを知らない……」
自分の身体に起こった変化が、大津をうろたえさせた。大津は、草壁の身体を押しのけようと、その肩に手を移した。
「天渟中原瀛真人天皇の死で、帝王の時代は終わったのだ」
夢見心地で草壁の言葉を聞きながら、大津は愛撫するがごとくの草壁の手の動きになんとか抵抗しようとした。刀子のことを誤魔化すことはもはやできない。今、草壁に切りつけなければならない。
――今……。
「どういうことだ、草壁」
機械的に言葉を返す。
――草壁を突き放し、刀子を草壁の胸に突き立てればいい。それだけで、玉座はおれのものになる。
かれはいまその最短距離にいる。目の前にいる男を殺すことなど、なんでもないはずだった。草壁の腕は細い。ねじりあげれば簡単に折れてしまうだろう。声を封じることもたやすいにちがいなかった。
「神たる天皇を父上は望まれた。その望みどおり、われわれは神になり、政治は他者のものになる」
大津は、唾を飲み込んだ。指先まで強ばって、震えている。これほど張りつめているのに、草壁にわからないはずはない。しかし、草壁は淡々と語り続けた。
――なぜ、命乞いをしない? 草壁。
草壁は、明らかに大津の意図に気づいている。
――死にたいのか……?
「天皇は、心弱い方だった。近江朝廷をくつがえし、皇位を奪ったことをいつまでも気に病んでいた。あの方は、簒奪者と呼ばれることを恐れた。だからこそ、あの方は天命開別天皇の意志をより強力に受け継ごうとした。
そして、自身は超越者とした。すべてを超えて存在するもの、神とすることに、あの方は安息を求められたのだ。そして、そこにわれわれの道は定まった。
――天皇家は神の一族となる」
大津の胸から草壁は顔を上げた。そっと、大津の身体を押しやる。
暗い部屋に草壁の白い顔が浮かび上がる。厳粛な気高い、そして子供じみた顔。そこからつながる、細くなめらかな白い首。
「神……」
草壁は、目を閉じていた。
――この男を殺すのは、今しかない……!
しかし、そう考えれば考えるほど、行動に移すことができなくなっていく自分を大津は意識していた。
「神になる……」
大津は震える声でくりかえした。
――おれは草壁を暗殺しにきたのだ、早くこいつを殺ってしまえ、機会は今しかない、今しかないのだ。
大津は、静かに息を整えた。草壁の肩に左手を置き、右手でふところの刀子を取り出し……。
「……、大津」
草壁の右手が大津の左手に重ねられた。そして、大津の目を真っ向から見返した。
「天渟中原瀛真人天皇の遺言だ」
草壁の目は、深い。
「『皇位は、大津皇子に……』」
――な……!
草壁は、くちびるの両端を少し釣り上げるようにして笑った。その微笑は、魔性のそれだった。
「もちろん、この事実は公開されていない。わたしが生きているかぎり、決して公開されない。皇太子はわたしだ」
しかし、その魔性は一瞬にして消え、草壁は再び目を閉じた。喉は、大津の目にさらされたままだ。
――どうしたのだ、おれは……。
殺すつもりで来たはずだった。草壁もまた、大津に殺されることを望んでいるとしか思えない。
それなのに、身体が動かなかった。
「本来ならば、あの方は大友皇子をこそ玉座に置きたかったのだ。皇子が、あの方が憧れて止まない天命開別天皇のすべてを受け継いでいることを認めたときから。あの度量、あの果断、そして、あの不運――」
息が上がる。まるで、草壁に呪縛されているようだ。
「やがて、あの方はおまえの上にかつての憧憬の対象を見出だした。あの方は、わたしに早く死んでほしかったのだ。けれど、あの方の寿命の方が早く尽きた。どれほど無念だったか、その心中、察してあまりある。わたしはあの方の御魂が辺りを彷徨っているのを感じる。母上が、まだ殯の儀式を行なわないからだ。母上ですら、迷っている。それほどに、わたしは劣り、おまえは勝っている」
「待て、草壁」
――いま、断ち切らなければ、なにか、大変なことが起こる。
大津は思った。
「――大津。おまえはその手足に枷をはめられて生きてゆけるか? ただ、作られた詔勅を読み上げるだけ、それがこれから先の天皇の仕事になる。十年一日のごとく、『余は宣言する』、それだけを言い続ける、それがヤマトの国を知ろしめす天皇の実態だ」
「待つんだ、草壁……」
「壬申の年の戦から十五年、あの方は、ついに大友皇子のことを忘れることができなかった。最愛の息子を自らの手で殺さねばならなかった運命をあの方はどんなにお嘆きになっただろう。
あの方は、近江朝廷と争う気などなかったのだ。大友皇子の出生の秘密など、決して口外するつもりもなく、吉野で朽ちるおつもりだった。だからこそ、あの方は皇太弟の地位を捨てて吉野に引きこもったのだ。
しかし、あの方はあるうわさを耳にした。
『簒奪者は天命開別天皇だ。あの偉大な天皇こそが、どこのものとも知れない奴僕の血を引く簒奪者だったのだ』……。
そのうわさを耳にしたときのあの方の動揺はすさまじいものだった。それを煽ったのは母上だった」
「待て、草壁……!」
知ってはならないような気がした。大津は、おののいた。殺さなければならない。手遅れにならないうちに、この男を殺さなければ……。
しかし、どうしても、身体が動かなかった。
「あの方の第一皇子は大友皇子だった。あの方は、天命開別天皇の采女であった宅子娘女と通じ、皇子を儲けていたのだ。それはずっとあの方の負い目となっていた。兄皇子に対する裏切りの罪、それゆえにあの方は白村江の戦いの戦後処理に奔走したのだ。まるで何かに憑かれたように」
――何……?
しかし、大津は、草壁のことばよりも、その表情に衝撃を受けていた。
草壁の顔は、歪んでいた。
はじめて見る、従兄の憎しみの表情。大津は、息を呑んだ。
それさえも、大津には美しく思えた。その凄絶な美は、何よりも、大津を魅きつけた。いつもの気弱な草壁ではない。