弐(1)
――『わたしが行く』……。
馬に、鞭を入れながら、大津は昨夜の自分のことばを反芻した。
なぜ、そんなことを言ったのか、大津にもわからなかった。
ただ、暗殺が失敗したら、それがだれの手で行なわれたものでも、大津の命は確実にない。それなら、裁判などという面倒な手続きなしで、その場で死ぬほうがいっそすっきりする。
それに。
――草壁に、会いたい……。
夢の余韻かもしれなかった。
――もし、あの日、大名児に揺り起こされなかったら、おれは今度こそ、あの男を殺していたのだろうか? それとも……?
ここ、何年も、草壁は、ほとんど人前に出なかった。だれに対するときも、御簾ごしにしか会わず、年に数回、重要な儀式のときだけ、天皇の傍らに同席した。大津とは、ことばさえかわすことがなかった。
人前にほとんどでなくなるのと前後して、皇太子は、浄御原宮で起居している。さして遠くない嶋宮に、皇太子宮は営まれているが、ずっと戻っていない。
――替え玉ではないかと、うわさがあったが……。
しかし、草壁のあの美貌がもうひとつ存在するとは、大津には思えなかった。
遠く海の彼方からもたらされた白瑠璃の杯のように、魂の底を震わせるような不吉なまでの草壁の美しさ。理屈ではない。ふとした拍子に、その美貌がいたたまれないほどにまがまがしいものを内に秘めているように大津には思えた。
――……!
宮の姿が、その目に入ったとき、大津は力一杯手綱を引いた。馬は驚いて立ち上がったが、そこは大津、きっちりと宥めた。
ふりかえると、多武峯にかかった月はほとんど動いていなかった。
大津が営む訳語田宮から浄御原宮までは普通に走れば馬で半時。大津は、その距離をわずかに二分の一の時間で駆け通したのだった。
大津は、そこで馬を下り、声を立てぬようその口をひもでしばった。そのまま、ゆっくりと東の第三門をめざす。
門はたしかに開いていた。誰何する番人もいない。
手近にある木に疲れ切っている馬を繋いだ。
葉の落ちた大木の影がまるで牢の格子のように黒く浮き上がっている。大津は、細心の注意を払って足早にその門を通り抜けた。
門を抜けると、石を敷きつめた小道がまっすぐに西に延びる。しばらく行くと道は南西、南、そして北西の三方に分かれる。その北西の道が内裏に続いている。その門は、官僚の通用門で、他の道はすでに石畳が磨り減っているが、その道だけは通る人が少ないのか、滑らかな切り出したての石のままであった。それに沿って行くと、道はさらに左に曲がっており、右手には内裏のこれも分厚い塀が続く。
しばらくすると、内裏門にたどりつく。
宮の外門にもまして、それは華麗で堅固である。
見張りの姿はない。
――『内裏門は?』
あの時、そう聞いたのは大津ではなかった。では、だれだったろうか……?
――『こちらの手のものが、眠らせます』
――『どうやって? 不意打ちか、それとも薬か?』
――『薬です。遅効性の眠り香を、見張りの詰め所に仕込みます。薬は、大陸から取り寄せました。一昼夜は眠り続けます』
細心の注意を払いながら近づき、門に触れると、それはあっけなく開いた。
その時、初めて人の気配を感じて、とっさにふところの刀子に手をやった。
がたんと音がして、目の前に人が倒れてきた。
「!」
飛びすさり、身構えざま、刀子を抜いた。
――これまでか……!
そんな考えが脳裏に閃いた。しかし、後悔は感じなかった。逃げようという考えも浮かばなかった。ただ、目の前に現われたその敵を倒し、草壁のところへゆくまでだ。
それは倒れたまま動かなかった。大津は、しばらくためらったが、意を決してその人間の身体を仰向けにし、顔を確かめた。
それは、何度か見かけたことのある草壁の舎人だった。眠り込んでいるらしい。衣服から、かすかに香の匂いがした。
大津は、その舎人の身体を植え込みの影に隠し、もう一度辺りの気配をうかがった。
――それにしても……。
ゆっくりと門を閉じる。
――あまりにも、警備が手薄ではないだろうか?
拍子抜けするほどあっけなく内裏の中に入った大津は、考えた。
門を抜けてしまえば、皇太子が眠っている部屋は、もうあと数十尺のところである。それは、美しい玉砂利の庭の向こうにひっそりと静まりかえっていた。灯りは一つも見当らない。草壁は安心しきって眠っているのだろうか。
――それとも、息をひそめて大津逮捕の機会を狙っているのだろうか……?
大津の手が、草壁の私室の戸に掛かった。その戸は何の手応えもなくするりと開いた。
「だれだ……?」
それは、たしかに、草壁の声だった。
他にだれかがいるような気配はない。また、人を呼ぼうとする様子もない。
覚えず速くなる呼吸を整える。
――大丈夫だ、失敗などするものか。
ふところに忍ばせた刀子を確認した。
――草壁の口をふさぎ、その胸を一突きにする。そのままもと来た道を引き返せば、終わりだ。
手順をさらう。女のような草壁を殺すのは、わけないことだと思っていた。
――今だ……!
刀子を取り出し、鞘を払おうとした。
その瞬間、ささやくような、しかし強い草壁の声が聞こえた。
「どうしたのだ。早くしなければ、人に見つかる、――大津」
明らかにその訪問を予期していたとしか思えない草壁の言葉に、大津は一瞬身も凍りつくかと思われた。あわてて刀子をふところのなかに戻す。
――では……。
大津のなかを『罠』という言葉が駆け抜けた。
――逃げなければ……、しかし、どうやって……?
大津は無意識に辺りを見回した。
「早く、中に入れ、大津! 見張りに見つかれば、命がない!」
草壁の声に、大津は、戸を引きあけ、室内に滑りこんだ。
「!」
草壁の姿は、驚くほど間近にあった。後手に戸を閉めた大津は、危うく声をあげそうになった。室内は、暗い。時刻はすでに真夜中を回っている。明かり取りのために作られた小窓から差し込む淡い月光に、夜着をまとった草壁の姿が浮き上がって、まるで生霊のように見えた。
――痩せた……?
大津は、目を凝らした。
草壁の白すぎるほどに白い顔は、明らかに病人のものだった。暗いせいだと打ち消してはみたが、その一方で大津は草壁の命が長くないことをはっきりと悟った。この美しい従兄は、明日には冷たくなっているかもしれない。そんな幻想を抱かせるほどに、皇太子はやつれていた。
――人前にほとんどでなくなったのは、やはり、病のせいだったのか……? しかし、それにしても……。
「久しぶりだ、大津」
大津のそんな内心には気づかないのか、獣脂の灯りに照らされて、草壁は笑った。そのほほえみに、大津は一瞬身を引いた。灯りを避けて顔をそむける。
明らかな後ろめたさがかれを襲った。
かれのふところには、刀子が入っている。かれは、草壁を殺しにきたのだ。
「何年ぶりだろう。こうして、二人きりで会えるのは」
無邪気というにふさわしいそのほほえみ。
――なぜ、そんなふうに笑うのだ?
「どうした、大津。何か言ってくれ。それとも、こうしてわたしが見ているのはおまえの影か?」
草壁は小さく首をかしげ、そして大津の方に手をのばしてきた。
しかし、そう言いたいのは大津の方だった。
違和感があった。
どこが、どうというのではない。目の前にいる男は、たしかに、草壁の姿をしている。しかし。
――これは、本当に草壁だろうか?
大津は考えた。子供のころから知っている草壁は、女よりも泣き虫で、臆病だった。その草壁が、父が亡くなったというのに、落ち着きはらっている。天皇崩御のあと、宮は上を下への大騒ぎだったのだ。それなのに……。
たしかに、大津が皇太子と会うのは御簾ごしであってさえ何ヶ月ぶりのことかわからない。しかし、懐かしいなどという感情がはたして今、天皇が亡くなった今にふさわしいものだろうか?
そこかしこでさまざまな陰謀が企まれている。焦点は大津か草壁か、どちらが次代の天皇になるか、だ。
――おれが、今、ここにいるのだって……。
「知らないのか、草壁。……」
思わず、草壁の手を払いのけて大津は言った。しかし、それがどんなに間の抜けた問いか、大津は気づいて口をつぐんだ。
天皇のそばにじっと控えてつぶさにその容体を見ていたのは他でもない皇后と皇太子だったのだ。医師以外はだれもその御簾の向こうに入ることは許されなかった。天皇の最愛の息子である大津さえ、その枕辺に侍ったのはたった一度だったのだ。
その一度を大津ははっきりと覚えている。
父は昏睡していた。土気色のむくんだ顔、疎らに顎をおおう髭、落ちくぼんだ目。大津は、父を正視できなかった。
――これが壬申年の戦いを指揮した大海人皇子と呼ばれていた人と同じ人物なのか? 現人神と言われた天渟中原瀛真人天皇なのか?
大津は、父の姿に絶望した。それほどに、病み疲れた父の姿は惨めだった。それは、もう、死を待つだけといった風情だった。背けた目を、大津は二度と、父に戻すことができなかった。そばで看病している讃良皇后が若く美しいことが、さらにその絶望感を増長したのだった。
――そういえば、あの時、草壁はいなかった。
大津は、記憶をたぐり寄せた。その耳に草壁の声が聞こえた。
「何を?」
その言い方が大津の神経を逆撫でした。大津は思わず声を荒げた。
「父上が、亡くなられたのだぞD それなのに、……」
その言い草は何だ、と言おうとして声がつまった。目から、涙があふれる。堪えようとして、うつむき、くちびるを噛んだ。
――……!
大津は、死んだ父のために初めて泣いた。その涙が初めてだということに気づいて、大津は驚いた。自分が、人の子ではなかったような気がしてうろたえる。
「知っている」
草壁のやさしい声がした。大津は、思わず顔を上げた。草壁は、微笑を浮かべていた。それは、強風にあおられた桜が散ってゆくしかないように、はかなく淡く、そして美しかった。
大津は、息を呑んだ。