「皇子さま、大津皇子さま……!」
 身体を揺すぶられて、大津は飛び起きた。息が乱れ、冷たい汗が吹き出している。手のひらにかいた汗はまるで血のようにねっとりとしていた。
「どうかなさいましたか、ひどくうなされて」
「大名児……? 大名児か……!」
「もうお忘れ? あなたは、皇太子からわたくしを盗んだ、わたくしは、もう宮廷には戻れないのに……、ひどい方」
 大名児はそう言って、大津の首に腕を回した。若い雌の匂いが大津を包む。
「何を、どうせそ知らぬ顔で出仕するのだろう、あの、皇后のもとに」
 大津は言って、大名児の身体をそのたくましい腕で抱きすくめ、床に押し倒した。
「そうよ、一度や二度ではわたくしは動かされないわ。毎晩来て、わたくしだけの皇子さまでいて……!」
「それは、無理だ。父上の容体が思わしくない」
「では、……?」
 大名児の探るような、しかしそれでいて期待に満ちた視線を受けて、大津はゆっくりと首を振った。
「いや。皇太子は草壁だ、おれではない」
「今上のお気持ちが皇子さまにあるのはだれもが知っていることですのに。皇子さまはお感じになりませんか、みなが望んでいるのです、あの草壁皇子ではなく、大津皇子が、わたくしの皇子さまが天下に号令なさることを」
 目を輝かせ、大名児は言った。華やかな、それでいて毅然とした美貌。それは、巫女のように気高く、また、淫らだった。
「まちがっても人前でそんなことを口にするな、大名児。命がないぞ」
大津はそのごつい手で女のほおを包み、言った。
「うそをついてまで、生きていたいとは思いませんわ。大名児は、欲しいものは欲しいといいます。だれにも、うそはつきません」
 はっきりした口調、宮廷一の秀才といわれる大津の向こうを張る機転、それらを大津は愛した。草壁と競いたかったこともある。宮廷中が、大名児をめぐって大津と草壁が争うのを固唾を飲んで見守っていた。それは、かつて中大兄と呼ばれた天命開別天皇と大海人と呼ばれた今上とが額田女王をめぐって争ったのに似ていた。
「いま、おれが欲しいのは、おまえだ、大名児。いまは、おまえ以外の何もいらない」
 言って、大津は大名児のうなじを吸った。
 大津は、勝ったのだ。大名児の腕が、大津の背中に回る。軽く歯をあてると、女の爪が大津の背中に食い込んだ。何度も何度もくりかえした愛撫に、女の体は次第に敏感に反応するようになる。苦痛の声が歓びのあえぎに変わっていく。
 大名児が選んだのは草壁ではなく、大津だった。
 大津の耳に、大名児の強い声が聞こえた。
「皇子さま、――皇后さまが、どうやらご決心をなさったようです」


 それから三日ののちに、今上・天渟中原瀛真人天皇は身罷った。
 床に伏すこと一年。
 皇后が暗殺したのだといううわさがまことしやかにささやかれたが、皇后はまったく意に介する風はなかった。


 飛鳥浄御原宮。
 それは、天渟中原瀛真人天皇が壬申の戦を勝って、築いたヤマト最大の宮である。
 厚い掘立柱塀が宮の四方を取り囲み、東西にそれぞれ三か所、南に一か所、鉄で補強された樫材の扉を持つ門が造られている。
 詳細な宮の見取り図をさし、
「東の第三門の見張りを買収しました」
 言ったのは、新羅人の間者を手足のように使う男だった。その情報網は正確迅速をきわめていた。先の壬申の戦の折にも、父の手足となって働いた男だ。
 天渟中原瀛真人天皇が崩御して七日。都は一見、天皇の喪に服して静かだったが、その実、内部は騒然としていた。
 強大な権力をもった帝王の死、そして、二人の皇子。人々は、まだ壬申の年の戦を忘れてはいなかった。あちこちでささやきかわされる、後継者。そこで挙がる名は、下級のものへ行けば行くほど大津の名がふえる。
「そこから、皇太子の居室までは、たいした距離ではございません」
 しかし、施政の中枢では、讃良皇后の力が強かった。印璽と神器をその手中にし、財力をも握った女丈夫は、着実に草壁即位へ動いている。皇后の粛正を恐れるものもまた、多かった。あわただしい群臣たちのなかで、大津は強い不安感に苛まれていた。
 このままでは、皇太子・草壁皇子が皇位につく。
 人から天才と呼ばれ、自身もまた、その呼称に恥じないと自負している大津ではなく、あの、美しいだけが取柄の男が。
 大津はくちびるを噛んだ。
 ――あの草壁が……!
 草壁皇子は非常な美貌の持ち主だった。小さな白い顔、刻んだように弧を描く眉、大きく澄んだ目、細い鼻梁、色の薄いくちびる。女であれば、だれもがそう言うほど、あの男は美しかった。絶世の美女といわれたその母・讃良皇后とうりふたつのその顔。大津には、壬申の年、桑名で再会したその従兄が、最初、女に見えたほどだった。柔弱で、臆病で、あの戦のさなかにあって、大津よりひとつ年上であるにもかかわらずなお、馬にも乗らず、剣を持たなかった草壁。
 この数年は、病気にかこつけて女を遠ざけ、美しい青年をその周囲に集めて衆道にうつつを抜かしているという。そして、そのうわさを裏付けるように、壬申の乱の勝者・天渟中原瀛真人天皇は大津立太子に傾き始めていた。だれもが、草壁のなかに女を見、建設途上のヤマトを背負って立つべき王の姿を大津のなかに見ていた。
 ――草壁を退け、皇位に即く。
 かれには決して許されない、皇太子という地位。それは、大兄という称号よりも明確な意味を持ってきはじめている。
 が、いまなら、くつがえす余地はある。
 しかし、大津は最大の加護者であった父を失った。讃良皇后あるかぎり、草壁の優位はだれの目にも明らかだった。
 かれは、その優位に対する嫉妬を抑えられなかった。大津が、草壁に譲らなければならないその一点。そのたった一点が致命的なのだ。
 ――せめて、草壁が、もう少しましな男だったら……!
 大津が、その下で仕えるに足ると、そう、亡くなった父のような男だったなら。
 しかし、草壁はそうではなかった。
 ――この手に皇位を。
 何よりも大津自身がそれを望んでいた。そして、その意志は、今や大津だけのものではない。大津を擁立しようとしている臣たちすべての意志なのだ。父が草壁よりも大津を次代の天皇に据えたがっていた、その事実を豪族たちは敏感に察知している。一部の臣たちは、天皇が病床につく、ずっと以前から、大津皇子即位の工作を始めていた。
「そして」
 ――皇太子暗殺――。
 大津は、息を詰めた。居並ぶ同志も、また、息を詰めて大津を見つめる。
 いずれ、だれか言いだす計画だった。天渟中原瀛真人天皇亡き今、戦を経ずに、大津が即位するには、それがいちばん上策なのだ。挙兵するには手駒が足りない。壬申の戦はいい手本になったが、それを手本にできるのは大津だけではない。最大の敵、讃良皇后もまた、その戦のなかにいたのだ。
「それで、だれが……」
「――わたしが、行く」
 大津は、言って、立ち上がった。
「皇子さま……!」
「わたしが、行く」





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