六
女官の足音が聞こえなくなるまで、二人はじっと息をひそめていた。そして、その音がまったく消えて初めて、草壁が小声でささやいた。
「もう、宮の者たちは動き始めている、大津」
草壁が言うまでもなく、大津はすでに帰り支度を整え始めていた。素早く衣服を身につけてゆく。草壁の触れた肌が、衣服に隠され永遠に触れることのできない世界へいってしまおうとしている。
「わたしはおまえを殺したくない」
言ってから、しかし草壁はそれが本当に自分の本心であるのかわからなくなった。大津は死ぬ。それは、すでに決まったのだ。
「また、逢える。きっと逢うことができる」
言いながら、草壁はかきあわせた衣服を指先が白くなるほどつかんだ。
――次に会うことが叶うなら、それは黄泉だ……。
「だから、今日はこのまま行ってくれ、頼む。そこにある薄絹を被っていけば、この宮の門までは出られる。そこから先は、先導に紺色の衣をつけた男をつける。それのあとについていってくれ」
「わかった」
大津は、言った。
「いつか、連絡する。きっと……」
草壁はくちびるを噛んだ。そんな草壁のあごを軽くつかんで、大津は接吻した。軽く触れるだけの接吻、くちびるを離した大津は、にっこりと笑った。
「草壁。愛している」
男が女にかける言葉。
「早く行ってくれ、大津!」
草壁が言うより早く、大津の姿は板戸の向こうに消えた。
大津の姿が部屋から消え、その立ち去る気配すら去ってからも、草壁はじっと板戸を見つめていた。その目は、激しく燃え立っていた。
――これが、わたしが待っていた運命か……?
草壁は、血の出るほど強くくちびるを噛んだ。
迎えるはずのなかった朝が、草壁を包みはじめている。皇太子暗殺計画は、もろくも崩れ去った。
草壁は、生き永らえてしまった。そして、大津が死ぬ。
――大津……!
常に死ととなりあわせのような草壁ではなく、だれが見ても健康で、死とは無縁のような大津が。
遠くで馬のいななきが聞こえた。つづいて、石畳を蹴るひづめの音。何騎かがこの浄御原宮をあとにしたのだ。
――大津が捕まる前に……。
死ぬ。
突然、その考えが草壁をとらえた。
草壁は、大津が忘れていった刀子を拾い上げた。次第に明るくなりはじめた部屋で、その鉄の道具は自身発光しているように青白い光を放った。その蠱惑的な輝きは何者にも勝る強い誘惑だった。草壁はついに大津と結ばれることができなかった。大津が残していった刀子、それを体内に迎え入れることができれば――。
その光る刃に草壁はくちびるを押し当てた。撫でるように引くとくちびるが細く切れて血の筋が走った。苦い血の味が草壁の口に広がる。それは、草壁と『死』がかわした契約の味だった。
――大津……。
草壁は短刀を自身の胸に当てた。
疼痛のあとの甘い快楽……、訪れる至福の時……。
草壁は目を閉じた。ゆっくりと刀子に力をこめる。
しかし、その契約はついに果たされなかった。
突然飛び出してきた人影が、草壁の手から刀子をたたき落とし、さらに部屋の隅まで弾き飛ばしていた。
「史……」
それは、草壁が拾いあげた、鎌足の息子だった。
「おまえか……」
史は、醒めた目で草壁を見つめていた。その目を覗き込んだ草壁の目から、激しさが消え、だれもが見慣れた気弱で女々しい皇太子が戻ってきた。
「皇太子、何をしようとしていらっしゃいましたか?」
他の者なら、その目を、表情を見れば、あからさまな蔑みを見せて、去っていく。しかし、史はそうせず、言った。その手から、血がしたたり落ちた。
「史、ケガを……」
草壁がそれに手を伸ばしたのを避けて、男はさらに冷たく言った。
「何をしようとしていらしたのです?」