「――責めるか」
 草壁は、うつむいた。
 草壁は知っていた。
 ――藤原史……。
 この男には、すでに正体を知られているのだ。深い洞察で、真っすぐに草壁を見つめる野心家、藤原史。権力を望む男。
 次に顔をあげたときには、草壁の目は、冷静な、冷酷にすら映りかねないほど冷静な色を取り戻していた。
「選択するのはあなたではありません、皇子、あなたは、結果に従うだけ、その約束で今回のことがすべて動いたのです。皇后さまの大きな賭でした。それは、だれよりもあなた自身がよくご存じのはず」
「わたしは……」
 言葉を発しかけて、しかし草壁はやめた。もう、大津とともに生きることも、ともに死ぬことも、どちらもただの幻想になっていた。
「お聞き分けください。皇太子は公人。公人であるあなたには個人の意志はない。それはあなたが最もよくご存じのはずでございましょう」
 史の言葉が、草壁の夢を押しつぶし、現実に目覚めさせる。この男を拾い上げ、近づけたのは草壁自身だった。史が、持っていた藤原の家に伝わる極秘文書。それは、ヤマトを再び戦乱のなかに投じる力を持っていた。草壁は、そのゆえに、史を近く使わなければならなかった。野に埋もれて朽ち果てるはずだったこの男を近く仕えさせることで、草壁は、血の通った人間としての自分を捨てることになったのである。
「わかっている、……、弱気になっただけだ。あの従弟の心に触れて、わたしは人として生きることができるのではないかと、期待した、それだけだ……」
「皇太子」
 史の問いかけに、草壁は顔を上げた。くちびるを噛む。
「大津が、死ぬのだな……」
 目を閉じ、搾りだすように言った。
「まず、必要な証拠を揃えてからです」
「先刻の騎馬は、そのためか」
「御意」
「母上の判断はいつも正しい。――幼いころは、やさしく温かい方だった。いつのまにか、母上は母上でなくなってしまった。あれは壬申の戦のころからか……」
 草壁の目は遠く、それはわずかに二十五歳にしかならない若者の目とは思えなかった。それは、老いた、さまざまな修羅場を生きぬいてきた古参の戦士が過去を振り返るような、彼岸を見つめる目だった。
 草壁は知っている。かれは、何度も何度も黄泉へと誘う声を聞いた。
 知っているのだ。
 本来ならば、死ぬのは自分であったことを。
 父の死で順序が狂った。
 そのために自分以外の生命を摘み取らねばならないことを。
「発端は田村皇子の即位……か。皇后が皇族出身でなければならないがために選ばれた宝皇女、引き裂かれた恋が宝皇女の密通を生み、祖父・中大兄皇子を生んだ。祖父は負の皇子だった。負の力の方が正の力よりも強い、負であることを自覚している場合ならばなおさら……。その出生の秘密が祖父の業績を生み、簒奪者の意識が父の業績を生んだ。
 ――そして、わたしの場合は、最も愛したものを殺すことが原動力となるか……、わたしもまた、負の皇子なのだな」
 ――この身に負った宿命か。
「強く生まれたかった……、心も、身体も……。そうすれば、だれも争うことなどなかったのだ」
「いいえ。それは間違いでございましょう」
 史がきっぱりと言った。
「たとえ、あなたがどれほど優れていようとも人々のなかに不満は存在する。皇太子たった一人がこの世のなかに生きているわけではありません。多くの豪族たちも生きてゆかねばならない。かれらにはかれらの利害があり、それらは常に他と対立するようにできている。人が生きているかぎり、決して争いはなくなりません。施政者の役目はそれを調整し、能うかぎり縮小することです。その一つの型として律令が存在する。
 ……、正直に申し上げるならば、わたくしは大津殿が敗北したことにほっとしております。あの方の背後に動いている者たちは、現政府に対して不満を持っている者ばかり、ただ、不満であるというだけで互いに結びついたもの同士であるかれらを、大津殿の治世になったときに調整してゆくことはたいへんな難事業となったでしょう。そして、おそらく大津殿にはそれは不可能であったでしょう。あの方は、正直すぎ、やさしすぎる……」
「そうだな……」
「なぜ天渟中原瀛真人天皇は大津殿に天命開別天皇を見たのでしょうか。わたしには、皇太子こそが、天命開別天皇の血を受けておられるようにお見受けします」
「父上は、天命開別天皇の輝かしい面のみをお愛しになった。天命開別天皇本人をすべて愛していたわけではない。祖父の血が天皇家の純血でないことを知った、その時に、父上のなかで天命開別天皇はふたつに分かれたのだ」
 汚れた血、それ故にこそ輝くばかりだったその才能……。自分が負であることを自覚した者のみが持ち得た美貌。それら、かつて天命開別天皇に捧げられた賛辞はすべて草壁にたいしても捧げられるべきものだった。もしも、草壁の身体が父の半分でも丈夫であれば、かれは皇太子として恥じない皇子だったのだ。……、しかし、健康体であれば、草壁は今ほどに聡明ではあり得なかっただろう。彼岸を見つめるもののみが持つ知、それこそが草壁の聡明さの源だったのだから。
「なぜ、こうもうまくゆかないのだろう。まるで、神々がわれわれに悪意でも持っているかのようだ」
 遠い、遠い目。諦念が草壁を支配している。その感情は祖父にも父にも持つことができなかったものだった。
「皇子さま」
 史が言った。この男とて、まだ三十にはなっていない。しかし、皇太子と語り合っているときは、老成した政治家の顔をしている。父に似て毅然としたその美貌は、皇太子とはまた違った凛々しさと言うべきものを備えていた。
「案ずるな、史。いずれわたしは即位する。必要な体裁はすべて繕っておく」
「どうやら、大津殿の後には、新羅がついているようでございます」
「!」
 史の言葉に、さしもの皇太子も顔色を変えた。見当はついていたものの、いざ、はっきりと告げられると、放置しておくわけにはいかない。白村江の敗戦はまだ記憶に新しいのだ。
「これで、大津の死は決まったな」
 草壁はひとりごちた。世界のすべてが、希望など無縁だと、草壁に思い知らせようとでもしているようだ。
「今回の失敗で向こうは焦り始めるでしょう。今度は本当に罠を張り、一網打尽にいたします」
「いつだ」
「九月二十四日、殯宮で」
 冷たい横顔を見せて、史は言った。
「わたしが殺されるかも知れない」
 史と同じ方向へ視線を向けながら草壁は言った。
「わたくしがお側に控えさせていただきます」
 その視線の先には、白みかけた空がある。
「おまえの剣がわたしを切らないという保証があるか」
 草壁は口元に笑みを浮かべながら言った。
「わたくしは時を待つことを知っております」
 長いこと黙り込んでいた史は、やがて笑いを含んだような声でそう言った。





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