五
夜が明ける。
昼の世界がやってくる。
しかし、大津は草壁を離さなかった。やっと見いだした道に、押し進もうと、強く身体を押し付けてくる。
――大津、おまえは……!
大津には、危機感というものが皆無だった。かれはいま草壁を無条件で信じている。男と女の間で行なわれることと、いま自分がしようとしていることになんのちがいもないと信じている。互いの間にあるのが愛であると、惹かれ合い恋し合っているのであると。
――幸せな大津、なんて幸せな恋しい人……!
草壁は、大津の身体を強く押し戻した。
なにもかも終わったのだ。
草壁の望んだ死はついにやってこなかった。代わりに黄泉へと旅立つのは大津皇子、皇子とは名ばかりの、采女にも劣る女の血を引く大津皇子。藤原の血を引く大津皇子……!
それほどに、藤原鎌足という男は優れていたのだろうか。祖父が、祖母が、愛して愛して愛しぬいたほどに。そして、母が憎んで憎んでついにはその息子の命さえ賭けさせるほどに。
手を夜着に伸ばす。忘れられて冷たくなった絹の感触。
その手を大津が力一杯つかんだ。
「草壁……」
手に力がこめられ、草壁は痛みにつかんだ夜着を放した。そんな草壁の耳元で大津はかすれた声でささやいた。
「欲しい……」
再び大津の手が草壁の身体に絡みつく。乱れた息が首筋をくすぐる。
「離せ、大津。夜が明ける。もう、何もかも終わったんだ……、大津……!」
最後の力をふりしぼって大津の身体を押し退けようとする。大津もまた、初めて草壁が見せた抵抗を封じこめようとでもいうように力をこめた。
「草壁、欲しい、おまえが欲しい……、今、この望みがかなうなら、おれは命に代えてもいい……、草壁、吾妹子……」
狂おしい大津の声。繰り返される接吻。そのくちびるを避けながら草壁は大津を説得しようとした。
「大津、頼む、逃げてくれ……、早く……! 今なら、まだ暗いうちならここから無事に出ることができる。しかし、明るくなってしまえば、生きて出ることはかなわない……、大津、……あ……、ダメだ、やめろ……、いやだ……、もうこれ以上わたしに触れないでくれ……、おまえを離したくなくなる、おまえの命よりも何よりも、この快楽を追ってしまいたくなる……、大津……!」
ついに、草壁は叫んで、能うかぎりの力で大津を突きとばし、夜着を羽織った。そのまま大津に背を向けて、夜着の胸をかき合せる。
「草壁!」
大津がその背を追い、夜着ごしに熱く滾ったものを押しつけた。強く抱きしめ、自分の方を向かせようと肩を引く。
「大津、やめてくれ! 頼むから、早く逃げてくれ……!」
「いやだ! それぐらいなら、ここでおまえと心中する……!」
「不可能だ……! どちらかが死ななければならないのではない、わたしかおまえか、どちらかが生き残らなければならない、天皇家の血を強く引く子供が、二人ながら死ぬことは許されない。それとも、おまえがここでわたしを殺すか……? もう遅い、もう遅いのだ、大津……!」
しかし、どれほど叫ぼうと、大津には決して草壁の心などわかりはしなかった。わかるはずがなかった。
「なぜだ、草壁? なぜ、遅いのだ。いまならまだ間に合う。いまなら、もろともに夢を見ることができる」
大津は何の疑問もなくそういってしまえるほど、純粋で無垢だった。
「愛している、草壁……!」
草壁のなかで最後の糸が切れた。それは至福の一瞬だった。
「大津、何も言わず、早くここから逃げてくれ! でなければ、おまえは……」
草壁の最後の抵抗もそこで途切れた。『愛している……』。大津が再びそう言った。しっかりと抱きしめられる。もう何年来、抱きしめられることなどたえてなかった草壁だった。激しい渇望がその身体を浸し始める。愛に飢えていた孤独な魂は、その空洞を埋めてくれる存在に決して逆らうことはできない。
ついに草壁は、大津の身体を受け入れようと、足を開き、腰を浮かせた。
「草壁……」
「大、……津……」
息が混じり合う。時が交差する。重なりあって、そして。……
「皇太子さま」
板戸の向こうで女官長の声がしたのは、まさにその瞬間だった。
白々と夜が明け始める。明かり取りの窓に、かすかな日の出の気配があらわれる。時の魔法は次第に効力を失ってゆく。恋人たちの一夜は、敵同士の、どちらかが死ぬまで続く戦いの昼に取って代られようとしている。
昼の世界では、その望むと望まざるとにかかわらず、草壁と大津は敵同士だった。また、そうでなければならなかった。すでに昼の世界の法がすべてを支配しはじめている。悪は大津にあるとする草壁の側の陣営に、大津は深く踏み込んでいるのだ。ここから見つからずに脱出するのは困難をきわめるだろう。
もうだめだ、もう、大津をかれの住む世界に戻してやらなければならない。そして、幸福な死を与えなければならないのだ。
草壁は、大津の身体を押しのけると、部屋の隅に追いやった。今度は大津も逆らわなかった。他人が動いていることを知って初めて、大津のなかに警戒心がよみがえってきたのであろう、その面は引き締まっていた。
「草壁……」
「静かに……! なんだ、女官長。こんな朝早くに」
大津を制しながら、眠たげな様子をつくろって草壁は応えた。
「つい先刻、藤原史さまよりお使いがございまして、お文を」
――何だって……?
史という名を聞いて、草壁は昨夜の気配を思い出した。まるで見張っているものがいるような――それも、もっとあからさまなら安心もできるだろうに、まるで木の葉が散るほどのわずかな――気配。やはり、あれは史だったのだろうか。とすると、あの男はいつまで見ていたのであろうか……。
「わかった、いま行く。隣の部屋の文机のうえに置いておいてくれ。少し、冷える。火桶を持ってきてくれないか」
「かしこまりました」