それが草壁の本心だった。
 だれもがかれより大津のほうが勝っていると信じている、しかし、かれはそれを無条件に受け入れているわけではない。いや、草壁は、自分の才能は大津をしのぐという確信を持っていた。
 ――ただ、父に疎まれたばかりに……。
 憎しみをこめて、父は繰り返した。草壁は身体と同じで心も人間も弱いと。女のような顔をして、媚びることしかしないのだと。側近たちは、その怒りを恐れて草壁に近寄ろうとしなかった。
 屈辱の日々。
 そして、草壁はあえてそれを否定しようとはしなかった。父の絶対権力の前に、自分の存在など虫けらほどの力もないのだと、草壁は肌で知っていたのだ。
「待て、草壁」
「――大津。おまえはその手足に律令という足枷をはめられて生きてゆけるか? ただ、回されてきた書類を読み上げるだけ、それがこれから先の天皇の仕事になる。十年一日のごとく、『余は宣言する』、それだけを言い続ける、それがヤマトの国を知ろしめす天皇の実態だ」
「待つんだ、草壁……」
「壬申の年の戦から十五年、あの方は、ついに大友皇子のことを忘れることができなかった。最愛の息子を自らの手で殺さねばならなかった運命をあの方はどんなにお嘆きになっただろう。
 あの方は、近江朝廷と争う気などなかったのだ。大友皇子の出生の秘密など、決して口外するつもりもなく、吉野で朽ちるおつもりだった。だからこそ、あの方は皇太弟の地位を捨てて吉野に引きこもったのだ。
 しかし、あの方はあるうわさを耳にした。
『簒奪者は天命開別天皇だ。あの偉大な天皇こそが、どこのものとも知れない奴僕の血を引く簒奪者だったのだ』……。
 そのうわさを耳にしたときのあの方の動揺はすさまじいものだった。それを煽ったのは母上だった」
「待て、草壁……!」
「あの方の第一皇子は大友皇子だった。あの方は、天命開別天皇の采女であった宅子娘女と通じ、皇子を儲けていたのだ。それはずっとあの方の負い目となっていた。兄皇子に対する裏切りの罪、それゆえにあの方は白村江の戦いの戦後処理に奔走したのだ。まるで何かに憑かれたように」
 ――いや、何かに憑かれているのはわたしの方だ……。
 しかし、草壁はもう黙っていることはできなかった。常に人よりも一歩下がって生きる、そうすることですべてを遠ざけることをまず覚えた草壁だった。実の親に疎まれたこどもの、必死の防衛本能の為せる業だった。しかし、いや、それゆえにかれの自尊心は他人が及ばぬほどの高さを維持してきたのだった。
「おまえも同じだ、大津。おまえはわたしを殺しにきた。しかし、迷っている。
 選べ、大津。
 生か、死か。
 おまえは、その自由な手足に枷をはめられて生きてゆけるか?
 決して後悔しないか?
 失うものの大きさを、夜毎の悪夢を、恐れはしないか?
 おまえの迷いはきっとわたしを悪霊にする、それでも……!
 絶対の自信が持てないのなら、決して求めてはならない。今、ここで即座にわたしの血を流すことができないのならば、決して求めてはならない。後悔と、苦悩の一生を怖れるならば、決して行動してはならない。
 もう一度言う。今しか機会はない。逃げ道もすべて用意されている。今なら、おまえはだれに咎められることもなくわたしを殺し、玉座に登ることができる」
「草壁……」
 ――わたしは、いったいどうしたいのだろうか……?
 呆然と草壁を見る大津、草壁は堰を切ったように語りながら、次第に自分の心の小暗い洞に眠る真実を白日のもとにさらそうとしていることに気づいた。そして、それは草壁を恐れさせた。うすうす気づいていたその真実……。
「おまえにできないのなら、わたしがやる……!」
 草壁は、それと対面することを拒み、大津のふところから刀子をつかみだすと、鞘を払い、その胸に突き立てようとした。しかし、その瞬間に刀子は大津の手に払われて、床に落ちた。
 草壁は、弾かれたように大津を見た。
 大津は、じっと自分の手を見つめ、黙り込んでいた。その手から、ひとすじ血が流れ落ちた。
「大津……、なぜだ……」
 草壁の中の激情も去っていた。一瞬の閃光のようにきらめいた皇太子の激しさは、再びその奥深くにかくされ、巧妙にとり繕われた。そこにいるのは、臣下にも軽く見られている柔弱な皇太子であった。
「うそだ、大津。何もかも、今、わたしの言ったことは、何もかも全部、うそだ」
 草壁は薄く笑った。希望と絶望の狭間で、危険な綱渡りを続けている男は、小さくため息を吐いた。
「すまない、わたしはおかしい。狂っているのかも知れない。あの方の枕辺で、あの方が口にするうわごとを毎日のように聞いているうちに、わたしは狂い始めたのだ。
 わたしがおかしいのだ。
 おかしいのはわたしなのだ。  天渟中原瀛真人天皇は死んだ。すべては、かの偉大な帝王とともに闇に葬られるのだ。それこそが……」
 ――そうだ、わたしももう長くはない。母上もまた、だれにも、何一つ告げることなくあの方の傍に眠るだろう。真実は隠蔽される。だれも、大津が天皇家の純血ではないことなど知り得るはずはない。その身体に流れているのは、父方も母方も天皇家に連なる高貴な血ではなく、藤原鎌足とその男を愛して死んだ蘇我の女の血だなどと、だれも知ることはない。
「大津、頼む、わたしを殺してくれ。わたしは恐ろしい。何もかもが恐ろしい。もういやだ。わたしには耐えられない。皇太子という重責、おまえの目、わたしに向けられる憎しみの目……!」
 もういい、もう何もいらない。いちばん望んでいるものは、決して得られない。それが運命なのだ。
 草壁は、すがるように大津を見つめた。いま、ここですべてを断ち切ることができないならば、かれは追い付かれてしまうのだ。恐ろしいのは、皇太子の重責ではない、大津の目でもない。かれの内にある、真実……。
「夢を見る」
 しかし、大津は落ちた刀子を拾おうともせず、草壁の背にそっと腕を回してきた。そして、耳元で言った。
「おまえを殺す夢だ……」
 ――!
 かすかな吐息が草壁の身体を震わせた。背を走る快さに、かれはくちびるを噛んで抗おうとした。かれが望んでいることは、人の世では許されぬことなのだ。まして、天皇家の盛衰を一手に握ろうとしている皇太子であってみれば、……。
「赦してくれ、助けてくれと叫ぶおまえをめった斬りにする夢だ……。
 おれは、一撃でおまえを殺すことができず、何度も何度も剣をふりかぶる。
 何度も何度もふりおろす。
 おまえは血の海のなか、それでも息絶えることなく、ついにはおれはおまえのその端正な白い顔に切りつけようとふりかぶり、……いつもそこで目を覚ます。おれは、ついにおまえを殺すことができない……」
 草壁は、大津の身体を押しやろうとした。しかし、大津はしっかりと抱えて離さなかった。怯えたように早口でまくしたてる大津、幸せな大津は、まだほんの少年なのだ……。
「できない、草壁。おれにはできない……!」
 擦れた、それでいて強いささやきが草壁の耳に伝わり、大津の腕が背骨をおろうとでもするかのように強く草壁の身体に巻きついた。
「大津……!?」
 放してくれ、そう言おうとした草壁のくちびるを、大津のくちびるがおおった。どちらかといえば冷たく、色の薄いくちびる、それは草壁が憧れ続けた男のものだ。
「……!!」
 そう思った瞬間、草壁の心は真っ白になった。
「やめ……てくれ……」
 わずかに大津のくちびるが離れる。草壁はなんとか残る理性をかきあつめてそう言ったが、すべては手遅れだった。十五年の思いが、静かに、そして次第に激しくやっと得た出口に向かって流れ始めていた。
 大津は何も言わず、さらに深くくちびるを合わせてきた。
「お、おつ……」
 額がふれあい、くちびるが離れた。大津の指が、草壁の髪をすくいあげた。くびすじに温かい腕が触れる。
「な……ぜ……」
 草壁はうめいた。
「なぜ、わたしを呼び覚ますのだ、大津」





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