「あまり大きな声を出さないでくれ。舎人は近くにはいないが、危険だ」
 明かりを吹き消しざま、草壁は言って、大津の身体を部屋の中央へ追いやった。
 そのままじっと、辺りの気配を探る。
 長い数瞬間だった。草壁の様子に、大津もまた息を殺している。
 しかし、部屋に近付いてくる足音も去ってゆく足音も聞こえなかった。
 どうやら気のせいだったらしい。草壁はやっと安心すると、大津を振り返った。しかし、大津はまだ辺りの様子をうかがっているのか、部屋の片隅に視線を固定し、くちびるを噛んでいた。
 草壁は、なおしばらくの間、大津のその様子を見つめていた。まるで、しなやかな野生動物のような鋭い視線、全身が感覚器官になったような緊張、それらは、すべて男の持ち物だった。他人が、決して草壁には持ち得ないとうわさする王者の風格。
 ――この男を失うわけにはいかない……。
「……大津、なぜ、来た……?」
 ――だが、誰が……?
 草壁は、大津の肩をつかんだ。
「え……」
 大津は、驚いて草壁の手を振り払おうとしたが、草壁は今度は離さなかった。そして、大津の胸に顔を埋める。
 ――わたしか、それとも、母上か、他の誰かか……?
 考えても詮ないことだった。草壁よりも大津の方が、天皇にふさわしい。だれもが、そう思っているのだ。まだ若い国が必要とする男は、大津だと。
「この宮中で、どんな陰謀が企まれているか、知らないおまえではないだろうに」
 大津の身体がピクンと反応した。
 ――そうだ、早く行動しろ。早くわたしを殺せ……!
 しかし、大津の身体は動かなかった。
「やって来たら、殺される、そうは思わなかったのか?」
 大津が息をつめた。
 ――さあ、早く……!
「現実に、ここは見張られている。――皇太子に害なすものには容赦しない、それが至上命令なのだ。ここまで忍んできた、それだけで、おまえは罪人だ。ここで今すぐ切り捨てられても、おまえには何も言えない。ここに住むものは、皇太子のため、その大義名分で動いているのだ、から……」
 ふいに、咽喉が鳴った。
「!」
 いつもの咳の発作だった。
 身体が、咳の振動で跳ね上がる。
「草壁!」
 大津の腕が、がっしりと草壁の身体を抱き止め、抱きしめた。
「大、丈夫……、い、つもの、ことだ」
 大津の衣服を強くつかみしめ、咳き込みながら、草壁は微笑もうとした。涙にかすんだ目が、心配そうな大津の目をとらえたからだ。
 ――お、おつ……。
 しかし、それは失敗に終わった。咳はあとからあとから喉を突き上げた。口を押さえた手に、なまあたたかい液体があふれた。
 いつになく長い発作だった。
 ――!
 その時、大津の腕が背に回されたのを感じた。大津の手が背をさする。ことばで語るよりも確かな、大津の熱とやさしさが草壁を陶然とさせた。
 それは、至上の幸福の時だった。咳が次第に小さくなり、草壁は、ようやく静かに息を吐いた。袖口で口元を拭うと、そっと大津の胸に手を置く。その胸は、幾度も夢の中でまさぐったように、固く締まっていた。草壁の咳が納まっても、大津は背を撫でるのをやめなかった。
 ――あ……。
 夢心地の中にいた草壁を現実に引き戻したのは、大津のふところの凹凸のある固い感触だった。
 ――これは、刀子……?
 長さ七寸ばかりのそれは、たしかに、大津の目的が草壁暗殺であることを語った。
「大津。おまえは、登極したいのか……?」
 背をさすっていた大津の手が止まった。
「沈黙は、肯定の返事と、とっていいな?」
 大津の胸に伏せた草壁の頬に、あざけるような笑みが浮かぶ。
「大津、おまえは時の流れを知らない……」
 なぜだろうか、何度も何度も繰り返した疑問が再び草壁のなかに沸き上がってくる。  草壁は、理解する。過去を、現在を。そして、未来を予測する。
 はずれるはずのない、その予測が、草壁を権力から遠ざけようとする。
「天渟中原瀛真人天皇の死で、帝王の時代は終わったのだ」
 大津ほどの男が、なぜ、それに気づかないのだろうか。草壁には、それが不思議でたまらなかった。それとも、ただの飾りものにされても、皇位につきたいと思っているのだろうか。
 大津の手は、草壁の背を離れ、肩に移っていた。
「どういうことだ、草壁」
 言葉はあったが、大津は、本気でたずねているわけではないことはすぐにわかった。大津は、おそらく機会をうかがっているのだ、草壁を殺す……。飾りものの皇位のために。草壁は、心のなかで笑った。
「神たる天皇を父上は望まれた。その望みどおり、われわれは神になり、政治は他者のものになる」
 ――早くしろ、大津……!
 死ぬこと、それがせめてもの抵抗だと思っていた。このまま生き続ければ、いずれ、草壁は神になる。だれとも御簾ごしにしか会わない。重要な儀式のときだけ、その美しい姿を人目にさらす、神……。
「天皇は、心弱い方だった。近江朝廷をくつがえし、皇位を奪ったことをいつまでも気に病んでいた。あの方は、簒奪者と呼ばれることを恐れた。だからこそ、あの方は天命開別天皇の意志をより強力に受け継ごうとした。そして、自身は超越者とした。すべてを超えて存在するもの、神とすることに、あの方は安息を求められたのだ。そして、そこにわれわれの道は定まった。
 ――天皇家は神の一族となる」
 草壁は、大津の胸から顔を上げた。大津が刀子を取り出しやすいようその衣服の袷を避けるために、そしてその白い首を大津の前にさらすために……。
 大津の額には、じっとりと汗がにじんでいるようだった。
 ――早くしろ、大津……。今しかない、わたしは、今、おまえの手にかからなければ……!
 そこまで考えて、草壁は苦笑した。
 草壁は知っている。なぜ、自分が皇位を避けようとしているのかを。大津にはわからない。おそらく、他のだれも、このヤマトが、いったい何をめざそうとしているのかなど知ってはいないにちがいない。
「神……」
 大津の声はかすかに震えていた。草壁は、目を閉じた。
 ――もし、大津が、今、現在ヤマト朝廷が目指しているものがなにかを知ったら、どう反応するだろうか……? 登極した自分を待っているものがなにかを知ったら……?
「神になる……」
 神ということばが、大津のなかに紡ぎだす恍惚が、手に取るようにわかった。麻薬のように忍び入る、権力の誘惑。
 ――大津、おまえはなんて……。
 幸福な一生というものが本当に存在するならば、おそらくこの男の一生こそがそうなのだろう。たとえば、ここでこのまま死ぬことになっても、大津はきっと幸せに死ねるにちがいない。後悔のない一生、疑問のない一生。自己存在を肯定しつづけることのできたその一生……!
 と、大津の手が、強く草壁の右肩をつかんだ。しかし、それは激しく震えていた。
「……、大津」
 草壁は、その大津の手に右手を重ねた。 
「天渟中原瀛真人天皇の遺言だ。『皇位は、大津皇子に……』」
 父にとっては、身体も弱く雄々しさに欠けるわたしは汚れた血の所産でしかなかったからだ、草壁は自分の言葉が大津に与えるであろう衝撃を計算しながら自身にはそういいきかせた。
 そして、大津は草壁の計算どおり、反応した。草壁の肩に乗せられた手を通して、大津の心の動きが伝わってくる。
「もちろん、この事実は公開されていない。わたしが生きているかぎり、決して公開されない。皇太子はわたしだ」
 ――疑問を持て、大津。そして、なぜそうなったかを考えろ。わたしは、おまえに真実を語ることはできない、その真実は、おまえという人間を損ねてしまうだろう。母でさえ、そうすることを拒んだのだ。実の子であるわたしとおまえをひきくらべ、その力量の差を冷静に見つめたあの人は、ついに、おまえに賭けることを決めたのだから。
「本来ならば、あの方は大友皇子をこそ玉座に置きたかったのだ。皇子が、あの方が憧れて止まない天命開別天皇のすべてを受け継いでいることを認めたときから。あの度量、あの果断、そして、あの不運――」
 語り続けながら、草壁は病床にあった父の繰り返したうわごとを思い出していた。
『大友はどこだ、わたしの大友は……。だれか、あの子をとり返してくれ、黄泉から呼び戻してくれ……!
 大友、なぜおまえはわたしを疎んじたのだ、おまえ、卑しい腹から生まれることで異父兄の罪を、そしてわたしの罪を贖ったおまえ、凛々しく美しく育ったおまえこそが、わたしの真の後継者だったのだ……!』
『この小僧を近寄せるな、これはわたしの子ではない、これはわたしの、大津を呼べ、ここには大津皇子を置け』
 ――そのことばを、わたしは決して忘れない。心弱かった、父上。あの方は、わたしを憎んでいた。祖父によく似たわたしを……!
「やがて、あの方はおまえの上にかつての憧憬の対象を見出だした。あの方は、わたしに早く死んでほしかったのだ。けれど、あの方の寿命の方が早く尽きた。どれほど無念だったか、その心中、察してあまりある。わたしはあの方の御魂が辺りを彷徨っているのを感じる。母上が、まだ殯の儀式を行なわないからだ。母上ですら、迷っている。それほどに、わたしは劣り、おまえは勝っている」
 ――負けるものか、決しておまえに負けるものか……!
 語りながら、草壁はくちびるを噛んだ。





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