壱
『申し上げます。大津皇子は、訳語田宮を単身、出発、いったん、多武峯に立ち寄り最後の情報を待って、浄御原宮へ迎かう手筈になっております。あと半時もすれば、こちらへ到着するものと思われます』
草壁がその報告を受け、舎人をすべて遠ざけてから、半時がたとうとしていた。
いま、かれは待っている。
いや、待っているはずだ。
かれの運命が訪れるのを。
明かり取りのためにつくられた小さな窓から、冴えた月光が差し込んでいる。
待人は、十六夜月が南中するころに現われた。
ためらいがちに開かれた板戸、月明かりを背に黒く浮かんだ身体。それが、草壁を殺せば、すべては終わる。
草壁は、なお待った。運命の手がかれをさらってゆくのを。
しかし、影はいつまでも動かなかった。
「だれだ……?」
草壁は、わかりきっていることを、尋ねた。影はようやく動いた。その手はどうやら胸の袷に入れられたようだった。おそらく、そこに刀子を隠し持ってきたのだろう。
しかし、それ以上動かなかった。
影は、ずいぶん長いことそうしていた。辺りを窺っているのだろうか、それとも……?
――ためらっている場合か……!
草壁は焦れた。
――それとも、この影は大津ではないのか……?
そんなはずはない、草壁は考える。しかし、ここ何年か、草壁は大津を間近に見たことがない。病気がちで、天皇皇后が暮らす浄御原宮に隣接して営まれるこの皇太子宮に引きこもっていることの多い草壁であった。また、大津も訪れることはなかった。互いの意志はどうあれ、二人は天皇位を競う最有力の皇子だった。
草壁の後見は母、讃良皇后。そして、早くに母親を失っている大津の後見は父、天渟中原瀛真人天皇その人だった。
草壁は浮かんだ疑念を振り払い、さらにことばを継いだ。
「どうしたのだ。早くしなければ、人に見つかる」
影が、動いた。しかし、それは意に反して逃げようとしたようだった。
「大津……」
草壁は、その影を引き止めようとして口を滑らせた。
――しまった……!
草壁は、あわてて口をつぐんだ。それは決して口に出してはならない名だった。
どこにだれが潜んでいるかわからない。ここは、皇太子宮なのだ。怪しまれぬように近衛のものを遠ざけるのさえ並大抵のことではなかった。この計画は、まったく極秘で行なわれている。もし、草壁以外のものが大津を見つけてしまえば、すべては水泡に帰すのである。
影は、明らかに逃げようとする素振りを見せ、左右を見た。もう、それ以上放っておくわけにはいかなかった。
「早く、中に入れ、大津! 見張りに見つかれば、命がない!」
ほとんど叫びのようになった自身の声に、草壁もまた恐怖を覚えた。影の動きは素早かった。滑るように部屋に入る。その手で板戸が閉められた。ほっとしたのか、そのままずるずると座り込む。そのうつむいた顔が、おずおずと上げられた。
――大津!
窓から差し込むかすかな月光に照らされたそれは、紛れもない異母弟の姿だった。
――似ている……。
大津皇子。誰もが、その面差しに父を重ねた。意志の強そうな口元、不思議な愛嬌をたたえた目。そして、がっしりと大柄なその体躯。座り込んで背を丸めているはずの大津の顔を、まだ見上げている自分に気づいて草壁は苦笑した。
大津は、ほとんど息もかからんばかりの距離に草壁がいることに驚いたようだった。
「三年ぶり、か……、大津」
草壁は、そんな大津から視線をはずすと、立ち上がり、明かり取りの窓を閉ざした。月明かりを失って真っ暗になった部屋で、手探りで明かりをともす。たとえ明かりが漏れたところで、夜中に草壁が起きだすのは珍しいことではないから誰も怪しみはしないだろう。そして、草壁は改めて異母弟を振り返った。
なんとしても、大津の行動を引き出さねばならない。そのための、逢瀬である。
――しかし、どうやって……。
かれは昨日から、いや、父、天渟中原瀛真人天皇の臨終の瞬間から、ずっとそれを考え続けていた。
そんな草壁の内心など露知らぬだろう、大津は、草壁の微笑みにまぶしそうに目を細めた。
――大津……!
だが、相手の表情に見入るのは、大津だけではなかった。大津の顔を間近に見、その匂いを間近に嗅いだ瞬間、草壁もまた、十五年の時を刻んだ思いに胸をつまらせた。
それは、封じられた恋だった。その太い腕に抱かれ、そのたくましい身体で貫かれたいと、草壁は思った。それが、異常な欲望だと、知らぬわけではない。だからこその十五年だった。
しかし、草壁にはそんな自分の感情にかかずらっている暇はなかった。時間は容赦なくすぎていく。
大津が、すぐさま行動にでないことが、草壁を焦らせた。時間は限られている。この夜明けまで、それが約束だった。すでに月は中天にかかっているのだ。
「何年ぶりだろう。こうして、二人きりで会えるのは」
なんとか言葉をつなぎ、草壁はどうやって大津を挑発するかを考え続けた。
――たとえば……。
たとえば、ここで、草壁が逃げる素振りや人を呼ぶふりをすれば、大津はすぐさま行動に出るだろう。しかし、それはあまりにも危険な賭だった。そうなったときに、大津に逃げ道を教えるものがいない。駆けつけた舎人たちは、血塗れの草壁と、血のついた刀子を持った大津とを同時に見つけ、そして事態を察するだろう。そこで、大津が抵抗でもしようものなら、その命は即座に失われてしまうにちがいない。
ここは、皇太子宮なのだ。
それでは、元も子もない。
「どうした、大津。何か言ってくれ。それとも、こうしてわたしが見ているのはおまえの影か?」
微笑がまるで貼りついたように強ばっているのがわかった。震える手を、固く握りしめる。この震えが、大津の疑念を引き出しませんようにと祈りながら。
しかし、そんな配慮はまったく無用だった。大津は、草壁よりもずっと緊張していることはすぐに察せられたからである。その目はじっと草壁の顔を見つめており、そこに、何か重大なものを見出だそうとしているようだった。草壁は少しほっとして、大津の方へ手をのばした。何年もの間、触れることの許されなかった異母弟に触れてみたいという欲求が、草壁の緊張を解いた。
「知らないのか、草壁」
しかし、大津は、その手を邪険に払いのけ、まるで異世界のものを見るように、草壁を見た。
「何を?」
草壁は、大津の問いの意味をすぐには判じかねた。
「父上が、亡くなられたのだぞD それなのに、……」
大津の声は、かすれていた。太い眉が寄せられ、目がきつい光を浮かべている。と、その目から一筋、涙がこぼれた。
――そうか、そうだったな……。
嗚咽を噛み殺す大津を見ながら、父と大津の間にあったものと、自分と父の間にあったものとがまったくちがうものだったことを、草壁は思いしった。
草壁には、つい七日前に死んだ天皇が自分の父親だと思えなかった。枕辺に立った草壁を嫌い、大津の名を叫び続けた父を、草壁は他人を見るように醒めた気持ちで見つめていた。いや、他人の死の方がまだ、草壁の心を揺すぶったかもしれない。
大津は、あの壬申の年の戦場を父ともに駈け抜けたのだ。玉座と権力とを目指す、あの戦を。だからこそ、大津は父の死にもこたえた様子のない草壁に怒りを覚えるにちがいない。しかし、大津は知らない。その手に力を得るために戦った日々、大津が父とともにひとつの物を目指したその日々、草壁は、明らかに部外者だったことを。大津は、父の寵愛が自分に傾きはじめたのが、実は、吉野からだということなど知る由もないのだ。
「知っている」
かすかに微笑む以外、草壁に何ができたか。その臨終まで、付き添っていた草壁は、父がうわごとで繰り返すことをつぶさに聞いた。
「看取ったのはわたしと母上だった。天皇は、苦しんで苦しんで、血を吐いて、血の海の中で息を引き取った。死に顔は、苦痛そのものだった。悔いを残したまま、逝かねばならなかったあの方は、最後の最後に母上さえ裏切ったのだ」
――『皇位は、大津皇子に……』。それが、父の最後の言葉だった。
だからこそ、こうして、草壁は大津を招いたのだ。父の遺言を、実行するために。
草壁は、くちびるを噛み、夜着の襟を掻き合せた。
――だから、こうしてお前の行動に賭ける決心をした。母上でさえ、わたしの命を賭けることを承諾したのだ。
背筋を悪寒が走る。また、熱が出始めたのかもしれない。
――だれもが、わたしを……!
秋も終わろうとしている。
また、冷たい冬がやってくる。その前に。
草壁は再び大津を見た。
大津が突然、首を振った。
「どうした、大津?」
自然と手が伸び、大津の腕に触れた。草壁は、じっと大津の目を覗き込んだ。その目が、ひどくうろたえたように揺れ、大津は草壁の手を振り払った。
「離せ!!」
「大津」
払われた手が行場をなくして宙に浮かんだ。大津の肩が、その息につれて大きく上下する。再び触れようとして、草壁は手を止めた。皮膚が、かすかな人の気配を感じてささくれだった。