第2章(1)



皇極三年十一月二十六日



 その年の十月、遠智娘女は皇女を生んだ。それは、中大兄にとって初めてのこどもだった。ひそかに結ばれた婚儀だったので石川麻呂も大げさな祝宴ははらなかったが、その喜びようは天下を取ったかのようだった。かれのたったひとつの不満といえば、そのこどもが男ではなかったことだろうが、遠智はまだ十八、無事に第一子を出産したのだから、これから先いくらでもこどもは望める。
「いや、まったく……」
 石川麻呂は何度もそう言っては杯を乾した。当然といえば当然だろう。二人の娘を今はまだ徒食の身である中大兄に差し出した賭けに、まず勝ったのだから。
「最初はどうなることかと気をもみましたが……、こんな喜ばしいことが待っていようとは」
 崩れっぱなしの顔をなお崩して、石川麻呂は笑った。
「……、そろそろ、こどもの顔を見に行きたいが……」
「ああ、これはこれは。どうぞ、いらしてください。いや、失礼いたしました。娘も首を長くして待っていることでしょう」
 石川麻呂はだんだんろれつの怪しくなってきた様子で言いながら手を打った。その音に遠智付きの女官があらわれる。
「皇子さまを遠智の部屋までお連れするように」
「はい」
 女官は答えて、中大兄を促した。



「元気か」
 女官が下がるのを待って、中大兄は御簾をあげ、遠智の傍に寄った。
「皇子さま」
 久しぶりに訪れた中大兄を、遠智は、あどけない様子で迎えた。その傍らにはこどもが眠っている。
 中大兄は、その美女のほまれたかい妻を見るたび、新床を思い出した。触れようとした瞬間襲ってきたどうしようもない嫌悪感。中大兄はその美しい妻を抱くことができなかったのだ。触れることさえいとわしく思われるままいくらかの時間が虚しく過ぎた。やがて、部屋に不思議な香が満ちた。そのくゆりに中大兄が息をつめたのと、だれかの腕が部屋から中大兄を引きずりだしたのとが同時だった。その腕が鎌足のものだと知ったとき、中大兄は眠りに落ちた。
 中大兄は、ついにその新妻を抱かなかった。遠智はすぐに懐妊した。
 ――鎌足の、こども……。
 中大兄は、しかし、少女の夫を演じなければならない。やさしい言葉をかけ、いたわりの態度で臨み、しかし床をかわすことのできぬ夫。たとえ、それが不義の子であっても、蘇我と中大兄をつなぐことにはちがいない。
 ――『今は、ひとりでも多く味方につけるときです。蘇我氏の第二勢力なら願ったりといえましょう』。
 鎌足の言葉は、たしかに正論だった。政変を起こすといっても、中大兄と鎌足だけでは何の意味もない。政治とは、大王位とは、即位するものの意志だけでは成り立たない。その意志を支持する有力者が必要なのだ。中大兄にも鎌足にも、蘇我大臣に対抗するだけの力はない。だからこその、蘇我石川麻呂との関係だった。そして。
 ――そのための、こども……。
「寒さが厳しくなっている。身体を大事にするように」
 おそらく家人は、中大兄の訪れが少ないのはほかにも行くところがあるせいだと思い、また訪れても何もないままに帰ってゆくのは新床ののちすぐに身篭もり、また初めて出産をした姫をいたわってのことだと思っているだろう。
「ええ、あなた」
 遠智が、微笑む。赤子は腹がくちくなったせいか、ぐっすりと眠っている。女官がやってきて、赤子を連れていった。
「元気な子だな」
 二人きりになった中大兄は、遠智から目をそむけた。
「次は、男の御子が欲しゅうございます」
 あどけない仕草で中大兄の手を取り、遠智が言った。
「皇子さま」
 それは、明らかに女の媚態だった。しかし、この少女はそれほど男を知っているはずはない。
 ――鎌足一人、それも一度きり。
 その一度で孕んだのだ。中大兄が幾度も身を重ねた間人は、一度も身篭もっていないというのに。
「今宵は、わたくし、よい夜のような気がします」
 遠智が、中大兄の手を自らのほおに引き寄せた。そっとほおずりし、中大兄の方をうかがう。目が潤み、くちびるに血の色がさしている。
「もう、一月も、遠智は一人で眠ったのですもの、今宵は……」
 ――たしかに、皇子が必要だ。
 クーデターの計画は着々と進んでいる。
 ――わたしの血をひき、蘇我の血を持つ皇子が。
 これが、潮時というものだろう、中大兄は、覚悟を決めた。そっと、遠智の身体を引き寄せる。おそるおそる、くちづける。
 ――やはり、蘇我が必要なのは、なぜだ……?
 中大兄は、その頭に、響く声を聞いた。
 ――大王といいながら、豪族の承認がいる。決して、帝王たりえないのは、いったいなぜだ……!
 女を抱くのは初めてではない。できぬはずはない。そういいきかせながら、中大兄は遠智のくちびるを探った。
 触れ合ったくちびるを乱暴に吸う。背骨がきしむほど強く抱きしめる。遠智が、苦しげな吐息を洩らしたが、かまわずに押し倒した。噛みつくようなくちづけをかわしながら、きっちりと結い上げられた髪に手を差し込み、かき乱す。もう一方の手で、大きく張った乳房をつかむ。
 どんな卑しい女を抱くときも見せなかった粗雑さで、中大兄は遠智を裸にした。色白の身体はわけのわからぬ凌辱のゆえか、上気している。腕を持ち上げ、中大兄の胸に当て、おしのけようとするが、声はあげない。その顔を覗き込むと、苦痛か、それとも他の感覚からか、じっとくちびるを噛み、目を閉じていた。中大兄は、ようやく高まり始めた体をさらに自らあおりたて、足を大きく開かせると、勢いのままに貫いた。
「……!」
 遠智の悲鳴が、空気を引き裂いた。その目に涙がにじんだ。くちびるを噛み、遠智はじっと苦痛に耐えているのだ。
 中大兄は、性急に腰を動かした。
 しかし、溶暗はなかなか訪れなかった。
 その脳裏に、鎌足の姿が浮かんだ。
 あの男を初めて受け入れたのは、ほんの一年ばかり前。そして、それが、最初で最後だった。
 中大兄は、それ以来、叔父の相手を強要されることもなくなった。鎌足は、人目を欺くと称して請安邸でその真似ごとを要求はしても、ただ、中大兄の体に奉仕するだけで、それ以上のことはしない。中大兄は、ただ、鎌足の手で愛撫され、吐精するだけだった。
 中大兄はこの正月以来、その体に一度も男を受け入れていない。それは、十四の春以来初めてのことだった。
 最初のうちは、こんどこそはと思い続けていた中大兄も、やがて『こんど』は決してやってこないことを知った。鎌足の愛撫は、愛撫というよりはもっと単調で、ただ、中大兄が声を上げて達すればいいといった投げやりさだったから、中大兄もまた理性が溶けだす恐怖を味わうことなく、ただ、その手に任せていればよかった。
 しかし、中大兄はある日突然、気づいた。
 鎌足に抱かれたことが、中大兄のなかで確固たる意味を持ちはじめている。どれほど考えても、中大兄は鎌足との一夜に、快楽以外のものを思い出すことができなかった。われを忘れて上げ続けた声が耳の奥にこびりついている。
 中大兄には、それが許せなかった。
 ふと気づくと、鎌足のくちづけを思い出している。女の肌に触れながら、鎌足の細やかな愛撫を思い出す……。
 ――この女もまた、鎌足を知っている……。
 『鎌足を知っている』。それだけが中大兄の頭のなかで繰り返された。腕のなかにいる少女の白いかいな、血のにじむほど噛みしめたくちびるは赤い。白い咽喉をのけぞらせ、豊かにはった乳房には青く静脈が浮いている。
「皇子さま……、今宵はいかがなさったのですか……、いつもとご様子がちがいますような」
 ようやく最後の瞬間が迫ってきた中大兄の耳に遠智の切れぎれの声が聞こえた。
 ――『いつもと』……?
「苦しゅうございます……、お願いですから、これ以上は……、皇子さま、どうか今宵はお許しください……」
 遠智の言葉に、中大兄は一瞬にして、自身が萎えるのを感じた。
 ――鎌足は、いまだこの女の元に通っているのか?
 脳裏に浮かんだ考えに、中大兄は驚愕した。
「……いつもは、わたしはそんなにやさしいか?」
「そんな、皇子さま……、そうではありません……。ただ、今宵はあまりにご様子が……」
 苦痛に苛まれながらであるせいか、遠智は考えがまとまらないようだった。しかし、明らかにいまかの女にのしかかっている男が、いつもの男ではないことに気づいているようだった。
 ――この女は、中臣鎌足という男を知っている……。
 その考えが、一体何を意味するかわからぬまま、中大兄は最後の瞬間を迎えた。
 ――この女は、中臣鎌足という男を知っている……!
 その夜、中大兄は、疲れからぐっすりと眠り込んだ遠智を残し、夜明けには十分な時間があるにもかかわらず、蘇我邸をあとにした。





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