第1章(7)
再び皇極三年正月十三日
「は、あ、……!」
抱かれることに慣れたとは思いたくなかった。
しかし、この快楽は、なんだ。中臣の手が、舌が紡ぐ、悦楽は。
中大兄は、くちびるを噛みしめ、漏れる声を飲み込もうと躍起になっていた。
四年の歳月、それは、五日とあけず、茅渟で犯され続けた日々だった。あの嫌悪を、忘れてしまったとでもいうのだろうか?
「……、……ん!」
頬を捕まれ、中臣の口が押しつけられた。思わず、その舌を吸ってしまう。まるで、身体が他人のもののようだ。はい回る手のひらは、確実に中大兄の官能の絃を弾く。
――なぜ……!
意識さえも燃え上がった。いつもは醒めたまま、相手を見ているのに、すでに理性は跡形もない。ただ、中臣の紡ぐ快楽をむさぼる獣がいるだけだ。猛りたつ身体を、鎮めてくれる男の意志にねじ伏せられ従ってゆく、ただの獣が。
中大兄は、初めて、他人の手によってではなく、自分の意志で皇子の誇りを手放そうとしていた。
――なぜ、わたしは……!
――あの時……。
すべてが始まったのだ。
「な、かと、み……!」
信じたくなかった。
「あ、ああああ……!」
絶頂の瞬間、弾けるような衝撃の中で、中大兄は古人大兄皇子の顔を思い出した。のっぺりとした色白の顔、太った身体。大王位という輝かしさとは無縁のような凡庸な男。
しかし、かれは、蘇我本宗家に連なる『血』を持っていた。
中大兄がかれに優るのは、天皇家の純血という血筋のみだった。
しかし。
それすらないとすれば。
――わたしは、決して、大王位に即けない。
秘密を抱え、『大兄』として生きていくならば、中大兄は常に死と背中合わせであらねばならぬ。
いつ、殺されるか。いつ、秘密が漏れるか。
二重の枷が、中大兄を縛り付ける。
かれが、山背大兄王と同じ運命をたどらぬという保証がどこにあるというのだ。
――では、もし、『大兄』を捨てるならば……?
鎌足の手で手繰りよせられる夢とも現ともつかぬ世界でさまざまな考えが行きすぎてゆく。
――できない……。
自分が、なぜそれほどまでに『大兄』の名に執着するのか、中大兄にもわからなかった。今は母が座るあの玉座に、中大兄を縛る一体何があるのか。
「そんなことができるはずがない」
中大兄は、けだるい身体を起こした。
鎌足は、すでに身仕度を整えていた。先刻と同じように簾をまき上げ、庭を見ている。中大兄も鎌足の背中ごしに庭を見る。その庭は、夏用の庭で、いまは常緑の橘以外は葉を落としている。冬枯れの庭にはそこここにまだ雪が残っていた。睦月も半ばというのに、冷たい風が中大兄の頬をかすめた。今年は春が遅いようだ。月はもう沈んでいる。雪がほんのりと光っているのはこの部屋の灯りのせいか。
「そんなことが、できるはずがない」
その中大兄のつぶやきが聞こえたのかどうか、鎌足は振り向きもしない。
『大兄』を捨てることができれば、何も叔父の慰み者になる必要などなかった。そして、今こうして臣下に過ぎぬ男に身を任せることも――。
しかし。
たとえ父はどこの誰とも知れなくとも、母は歴とした皇族、それも現天皇なのだ。
中大兄は力が欲しかった。
「鎌足……、何が望みだ……?」
中大兄がその背に問う。鎌足は中大兄を振り返らない。その言葉だけが、中大兄に向けられた。
低く、力強い声。
「まずは、クーデターを」
――クーデターを。