第2章(2)



皇極三年十二月十五日午前



「なぜだ? 母の退位はわかる。しかし、なぜそのあとをあの叔父につがせるのだ? このわたしの、何が不足だというのだ!」
 その朝、中大兄は、夜が明けるまで請安邸の離れで鎌足と争った。他のすべてを鎌足の判断に委ねることができても、その最後の一点だけは、中大兄には承服できなかった。鎌足は鎌足で、決してその理由を明らかにしようとはしなかった。明確な理由が示されない以上、中大兄も承服できるものではない。
「何度でも申し上げます。理由を申し上げることはできません。その理由を知ることで、皇子さまの正確な判断力がそこなわれる恐れがあります」
 鎌足はそう言って決して譲らなかった。
「……わかった。もうよい」
 ついに中大兄が根負けしたのである。日はすでに高くなっていた。
「戻る」
 中大兄は、鎌足を従えて正門に向かった。
 そこに、大臣の姿を見かけたのは、偶然だった。



「これは、中大兄皇子さま」
 入鹿はそう言って一歩引き、ひざまずいた。数人の護衛を従えたその尊大な姿は、鎌足ひとりしかつれていない中大兄よりも、ずっと王者のようだ。その腰には、みごとな太刀が下げられている。それが、天豊財重日足姫天皇から下賜されたものだということはだれもが知っている。
「ご無沙汰しております」
 男は、臣下の礼を取りながら、見下すような圧倒的な力を持って言った。
「後に控えておいでなのは、中臣鎌足殿ですかな?」
 声には明らかに軽蔑の色があった。
 ――知っているわけだ。
 中大兄が南淵請安の館で中臣鎌足との情事に溺れているという醜聞は、ここ飛鳥では公然の秘密だ。
「大臣殿は、鎌足をご存じか」
「不世出の秀才という話を請安殿からうかがっておりますが、じかにお会いするのはこれが初めてでございます。皇子さま、よろしければご紹介いただけますか」
「……鎌足、こちらは蘇我大臣入鹿殿だ。今、このヤマトを動かしている不世出の政治家だ」
「お目汚しにございます。中臣連鎌足でございます」
 入鹿は、そう言った鎌足を上から下まで眺め回すと、にやりと笑って、立ち上がった。
「蘇我太郎でございます。おうわさは色々とうかがっております。請安殿に秀才と手放しで誉められるその頭脳と、一度討論でもしてみたいものですな。よろしければ、甘橿の丘の拙宅をお尋ねください」
「光栄でございます」
 鎌足は、無感動な声で答えた。
「皇子さま、お呼びとめして申しわけございませんでした。わたくしは、これにて失礼させていただきます」
 入鹿はそう言うと、中大兄に道を譲った。
「失礼する」
 中大兄は、言うと、門近くに引きだされていた馬に跨がり、請安邸をあとにした。





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