第1章(6)
再び舒明十二年一月十六日(その2)
足の早い雲が、月を隠しては去る、あわただしい夜。闇が寄せては、月に払われる、その闇に中大兄は捕まってしまった。
『逃げようとすれば、お前が『大兄』と呼ばれるような人間ではないといううわさが立つぞ、葛城』
そう言って笑った叔父の顔。年老いて――父や母よりも若いはずなのに、その姿は老人といってもよかった――醜く枯れた、その皮膚は、言葉につれてひきつるように動いた。
『おまえが、わたしに従うかぎり、だれにも話さん。わたしは、おまえが気に入っている……。『大兄』の名を含めて、な』
そのことばを聞いたのは現実か、それとも夢か、中大兄には判然としなかった。秋に咲く木犀のような甘いかおりが、中大兄を取り巻いている。
どのくらいの時が経ったのか、身体に感じる重みと息苦しさとで中大兄は意識を取り戻した。
――これは、一体……?
衣服がとり去られて、口には布のようなものが押し込まれていた。感じる重みは、のしかかっている叔父の重みだった。
その手は中大兄の下肢をまさぐっていた。
「……!」
飛び起きて、叔父を押しのけようと思ったが、痩せてはいても壮年の男の身体、中大兄はわずかに身をよじることができただけだった。
「抵抗をするな、葛城。逆らえば、おまえは明日から『大兄』ではなくなる。それでもよいのか……?」
その声はひどく優しげだった。
「おまえは、義兄上の種ではない。うわさだけでも十分、おまえから『大兄』の称号を取り上げることができる。そして、あの大后からその地位を取り上げることも」
下肢をまさぐっていた叔父の手がゆっくりと脇腹を這い昇り、あごをつかんだ。
何を、と思うまもなく叔父の顔が目の前に迫ってきた。思わず、目を閉じる。その口が、中大兄のそれに押しつけられた。
くちびるを、叔父の舌が舐めた。激しい嫌悪感に、中大兄は吐き気を覚えたが、それは口に詰め込まれた布に阻まれて、涙に変わった。
やがて、叔父の手が、背後に回され、自身でさえ触れたことのないくぼみをとらえた。
「……!」
中大兄には、それが一体なんなのか、わからなかった。ただ、叔父の乾いた手のひらが気味悪かった。息を詰め、何が起こるのかを見極めようとうっすらと目を開ける。
中大兄の様子に、叔父はわが意を得たりというように、にやりと笑った。
「やはり、知らぬな」
そこに触れていた指が、そのくぼみをこじ開けるように差し込まれた。
――叔父上!
言葉を発することができぬまま、中大兄は叔父を見た。異様な感触に、身体が硬直する。叔父は、さらに、手に力を加えた。そこが広げられ、強い痛みが中大兄を襲った。
「う……!」
悲鳴が喉を突いたが、それは声にはならなかった。押しのけようと渾身の力をふりしぼった。ふり上げた腕が叔父のこめかみにあたり、わずかにひるんだすきに中大兄はその身体を押しのけ、口に詰め込まれていた布を引きぬき板戸に向かった。
「葛城!」
しかし、吐き気によろめき、中大兄は倒れこんだ。みぞおちに激しい痛みがある。ついさっき打ち込まれたこぶしの痛みだ。
「おまえが、義兄上の種でないと知られてもいいのか……?」
倒れこんだ中大兄の腕をつかみ、引き起こしながら叔父が言った。
「うそです、そんなこと! うそに決まっています!」
叫びながら、しかし中大兄は自分の中でそれを肯定するものがあることを感じていた。
――『おまえが、義兄上の種でないと知られても』。
――『義兄上の種でない』。
ことばが、頭の中にこだましていた。本当なのだろうかと疑うその裏で、中大兄はその言葉を無意識のうちに肯定していた。冷たかった父、母。望まれて生まれたこどもではないのではないかと疑いたくなるほどに、中大兄は肉親の愛情に飢えていた。公の儀式でしか、かれはその両親とことばをかわすことはなかった。
――この伊予に来てはじめて、父とことばを交わすようになったのだ……。
「さっき、大后とわたしの話を聞いていたのだろう? 大后は、否定しなかった。ちがうか?」
中大兄の身体の上を、その指がゆっくりと這い回った。
「否定するどころか、うろたえ、わたしに交換条件さえだそうとした。おまえは、『大兄』と呼ばれるような人間ではない……」
「お、叔父上……」
「さすがに、おまえが、義兄上の種ではないとは、信じかねたが、たしかにその顔は、あの死んだ舎人にうりふたつ。いや、殺された、というべきかな」
「!」
胸をまさぐるその乾いた手が、さらにゆっくりと背中に回された。再び、さっきと同じ刺激が背後のくぼみに加えられる。
逆らえなかった。何が自分を待っているか、たとえ知っていても、中大兄には逆らうことはできなかった。
「思ったとおり、よくしまっている」
痛みが何度も中大兄を襲った。そこを広げられるたびに、中大兄は逃げたい衝動にかられたが、動けなかった。
「……!」
しばらくして、そこから叔父の指が抜かれた。
中大兄は苦痛が去ってほっと息を吐いた。叔父の身体が、離れた。
「衾に戻って、うつぶせに」
叔父は、薄笑いを浮かべながら言った。中大兄は、黙ってそのことばにしたがった。叔父は、中大兄の腕を背中で縛った。
やがて、腰を抱えられた。腕は縛られているので身体をささえるための手段がなく、体重がすべて左の頬にかかった。
なにかがくぼみに押しつけられたが、中大兄はただ、なされるがまま、目を閉じているしかなかった。
「!!」
突然、何かが、体内に侵入してきた。
――叔父上!
あまりの痛みに、声さえ出なかった。ただ、苦痛が広がっていく。涙があふれて頬を伝った。
「ん……う……」
――何……?
「苦しいか、葛城。……少しは聞き知っているだろう、男色というものをな」
――知らない、そんなもの!
苦痛はどんどん増してゆく。
ついに中大兄は気を失った。……
意識を取り戻したのは、顔にしたたる雫のせいだった。
――一体、何が……?
苦痛だけを記憶していた。身が裂かれるような衝撃だけを。
うっすらと開けた目に、灰色の濃淡が映った。まだ色を見分けられるほどには意識を回復してはいない。その灰色の濃淡が実は血に染まった張形だと知るには、叔父の言葉が必要だった。
「わしのものでは、初物を摘むには力不足なのでな」
ポタリ……。
また、雫が顔に落ちた。
「最初は、この張形に世話になる。こいつにかかれば、どんなに頑固な菊座でも、開かれずにはおかんからな……」
その雫が、赤い血だと気づいたとき、中大兄の体に再び痛みが返ってきた。
「痛むのは最初の数回だけだ。いずれ慣れて、快楽を覚えるようになる。ひとたびそれを知れば、あとは、深まってゆくばかりだ」
そう言いながら触れてくる叔父に抗う力はもうなかった。
「お前が義兄上の種ではないと知ったときから機会をうかがっていたのだが、……こうも早く訪れようとはな」
今度は、叔父の手は中大兄の前を探った。自分でも触れるのをためらわれるものに、その舌が絡みついてきたとき、中大兄は嫌悪と、逆にわきでる快感とに引き裂かれた。生暖かい感触が中大兄に力を与え、頂点に導いた。それが、知らず迎える朝の出来事と同じものだと知るには中大兄の知識はあまりにも少なかった。