第1章(5)
再び舒明十二年一月十六日(その1)
速田は行かなかった。そして、かれがともにいくはずだった仲間は桑名の関で殺され、反乱は失敗し、速田のふるさと・男鹿は焼き尽くされたと聞いた。
そのうわさを聞いたときの速田の目を、中大兄はまだはっきりと覚えている。
速田は、中大兄を責めなかった。ふるさと、そして仲間。何よりも大切だったろう、そのすべてを失っても、速田は中大兄を責めなかった。
――速田……。
ふるさとを失うというのは、どういうことなのだろうか? 中大兄は考え、そしてやめた。
――わたしには、ふるさとなどないに等しいだろう。
両親にすら顧みられない、名前だけの『大兄』。その中大兄に、ヤマトをふるさとだと思えといっても無理な話だ。速田以外にはだれも身近にいなかった。周囲の者は、決して中大兄と近しい間柄になろうとはしない。だから、中大兄は同母の弟妹以外の皇族とはほとんど面識がなかった。
――しかし、それが変わりはじめている。
そして、中大兄は室の前の、いくらか整備された庭の向こうに広がる原生林に足を踏み入れたのだった。
そこは、闇の世界だった。
獣たちが、突然の侵入者の足音に驚いたのか、がさがさと逃げてゆく。その体が足にぶつかって、中大兄は思わず飛びすさった。
月夜だと安心して、何ももたずに出たのはまちがいだった。疎らな林のように見えたが、中に入ってみると、大木に蔦が絡み、すっかり月を隠してしまっていた。
――どうするか……?
しかし、もう一度戻って灯りを持ってくるのは、もっとためらわれた。人に気づかれて、何のためにこんなところにいるのかと聞かれても、中大兄には答えようがない。
闇には、何か見てはならないものがあるような気がした。灯りを持ってしまえば、林に隠されたものがすべて見えてしまうかもしれない。
中大兄は、意を決して奥へ進んだ。林は、果てしなくつづくように思われたが、やがてまるで、そこだけ切り開いたような小さな広場が見えた。
――だれかいる……?
広場は、月の光に照らされて、青く色づいていた。飛鳥にいれば、まだ雪が降っている頃だというのに、伊予は暖かく、短い下草が風にそよいでいる。
――速田と、女……?
立ち上がった速田の身体に、全裸の女がからみついていた。
目を凝らすと、速田の服も乱れ、かっちりと筋肉におおわれた上半身が剥出しになっているのがわかった。やがて、速田の咽喉がそりかえり、女はその胸に頭を押しあてた。女の足が地面を離れ、速田の腰に絡みついた。同時に、速田の腕が女の背に回され、強く抱きしめた。
「うおおお……」
二人の口から、獣ような呻き声が出た。その身体が一瞬硬直したと思った次の瞬間、二人はそのまま崩れ落ちた。
ごおお。
その広場を風が通りすぎた。崩れ落ちた速田と女は、肩で息をしながら、再び起き上がり、固く抱き合った。二人のくちびるが固く深く合わさり、ひとつの影になった。
「……」
速田の声が、女の名を呼んだようだったが、中大兄には何と言ったのかわからなかった。
――いったい、何を……?
中大兄には、二人が交わしていた行為が何なのかわからなかった。
ただ、見てはならないものを見たような気がして、あわててきびすを返した。
もと来たとおりに戻ったつもりだったが、林が切れたところは、自室の前の庭ではなかった。
――どこで、道をまちがったのだろうか……?
見回しても、灯りのついている室はない。宮はごく普通の造りなので、それぞれの室に特徴というものがあまりない。あいにく月も雲に隠れてしまったので、庭の様子から見分けることもできなかった。
中大兄は、とりあえず、宮をとりまく廊下に上がり、歩き始めた。
速田は、どこかへ行ってしまったわけではなかった。しかし、いま見た速田の姿が目に焼きついて消えなかった。
――あれは、いったい……。
中大兄は、今、見てきたことを思い出した。月明かりの中、それは美しかったような気もしたし、ひどく醜いものだったような気もした。そして、あの行為が速田を変えてしまったような気がして、あわてて首を振った。
――速田……!
とにかく、速田に会って……。そこまで考えて、中大兄は立ち止まった。速田に会って、あれはいったい何だったのかとたずねるか? しかし、その一方で、中大兄はそれは聞いてはならないことのような気がした。
――……?
通り過ぎようとした部屋の中から母の声が聞こえたような気がしてふりかえった。
――ということは、ここは宮の北の奥なのだろうか?
それなら、自室とはさして離れてはいない。自分が、自室とは逆の方向に歩いているのだと気づいて、中大兄はもと来た道を引き返そうとした。
と、
「――軽。そなた何を証拠に……!」
中大兄の耳に、押し殺していながら追い詰められたような母の声が、今度ははっきりと聞こえた。
――叔父と一緒なのか……?
しかし、母があの叔父を嫌っているのはだれもが知っていた。だからこそ、天皇の甥、大后の実の弟と、二重に現政権につながりをもっているあの男が、まったく政治に関わっていないのだ。
「姉上の、その狼狽」
「軽!」
中大兄も、この叔父を好きではなかった。いや、ほとんどの人間が嫌っているといってもいい。
――では、ここは叔父の室なのだろうか……?
もしそうだとしたら、引き返してはまったくの逆方向だ。叔父の室は、南の端、ほかからずっと離れたところにしつらえられている。
――いったい、どちらの室なのか……。
中大兄は、確かめるために、声の聞こえる室に近づいた。
「誰にも言いやしませんよ、姉上。葛城皇子、間人皇女が義兄上の種ではないなどとはね」
中大兄の足が止まった。月が、突然その姿を現わし、中大兄を照らし出した。
――今、何といった……?
「だからこそ、あなたはわたしに手を貸さなければならない。わたしがこの切札を握っているかぎり、ね」
「――お前は、何という……」
「いますぐに義兄上をどうこうしろとは言うわけではありません。まだ、他にいくらも邪魔者がいる」
「一体何を考えているのです。何をしようとしているのです!」
母の声が一段と高くなった。
「大声をお出しになると人が来ますよ。――月も中空にかかりかけている。どうぞ、室へお戻りください、大后さま」
上目遣いに、人を見上げる卑屈な男が見えるような気がした。
「……!」
室のなかで人の動く気配に、中大兄は無意識に柱の陰に隠れた。板戸が開き、人が歩き去る気配があった。
「おやすみなさい、大后さま」
舌舐めずりするような叔父の声に、中大兄は柱の陰で後ずさった。そのとき、庭に鳥の飛び立つ音がして、中大兄は思わず声を上げた。
「誰だ!」
低いが、鋭い一喝だった。
「あ……」
身を返して逃げようとしたが、一早くその腕を叔父につかまれ、口をふさがれた。
「葛城ではないか」
後から羽交いじめにされた耳に、叔父のささやきが聞こえた。
――……!
中大兄は、耳にかかった叔父の息に全身が総毛立った。触れた腕が生暖かい。
「どうしたのだ、こんな夜更けに。十六夜月がすでに中空にかかっている」
それは、ひどく優しい声だった。
「今の話、聞いていたのか」
あごをとらえられ、そのまま中大兄は叔父の腕に抱き込まれた。
その顔が、間近に迫る。わけもなく恐怖を感じ、中大兄は叔父を押しのけようと腕をつっぱった。
「――逃げようとすれば、お前が『大兄』と呼ばれるような人間ではないといううわさが立つぞ、――葛城」
背筋を撫で上げるような軽の声音に、中大兄は叔父を見上げた。
「どうだ、少し、話をしてゆかんか……」
「叔父上」
「酒でも飲むか、葛城」
軽は、そう言っていったん中大兄の体を放すと、その室に招き入れた。
「いえ、わたくしは、……」
室へ戻ります、そう言おうとした瞬間、みぞおちに衝撃を感じ、中大兄は意識を失った。