第1章(4)



回想・舒明十年三月朔日



「どこへゆく、速田」
「お許しください、皇子さま。わたくしは、男鹿に帰ります」
 速田は、顔を歪めて言った。離れがたい、その目はそう言って泣いていた。
「仲間が、待っているのです」
 再び、戦乱の気配があった。つい一月前に、男鹿の族長が死に、そのあとを継いだ男から使者と貢ぎ物があった。その使者は、男鹿の出身である速田を訪れた。二人の会話は男鹿のことばだったので中大兄には皆目わからなかったが、その厳しい顔つきから、ただ事でないことだけがわかった。
「おまえは、舎人としてわたしに仕えているのではないのか? おまえは、わたしを捨ててゆくのか?」
「皇子さま、お許しください」
 速田は言って、引きだした馬に飛び乗ろうとした。
「許さぬ!」
 中大兄はその身体にしがみついた。
「!」
 不意を襲われて、速田は中大兄の体重をささえ切らず地面に倒れこんだ。
「わたしを置いてゆくことは、決して許さぬ」
 とっさに中大兄をかばって下敷きになった速田に、叫んだ。
「わたしを置いてゆくなど、決して許さぬ!」
 今思えば、信じられないようなことばが中大兄の口から出た。
「皇子さま……」
「おまえは、舎人。男鹿がヤマトに忠誠を誓ったしるしだ。そのおまえがこの飛鳥を去るということは、明らかに、ヤマトに対する反逆だ。それをわかっていて、このヤマトの『大兄』たるわたしに男鹿に戻るというのか!」
 今なら、中大兄はそのことばの虚しさに大笑いできる。しかし、二年前は中大兄はまだ自分に与えられた『大兄』の称号に誇りさえ持てたのだった。
「お許しください、皇子さま。わたくしは、どうしても戻らなくてはならないのです」
「反逆者として、わたしはこの場でおまえを殺すこともできる、それでも、おまえはゆくというのか? なぜだ!」
「仲間が、わたくしを待っているのです……」
 ――ナ・カ・マ……?
 そのことばが、中大兄の感情を解放した。
「ゆくな……」
「皇子さま……」
「ゆかないでくれ……!」
 中大兄が叫んだその瞬間、速田は驚いたように目を見開いた。自分の頬を、涙が伝っているのに、中大兄もまた驚いた。
 物心ついてから人前で泣いたのは、初めてだった。
「ゆかないで……、速田……」
 まだ、こどもの声で、中大兄は言った。
「葛城皇子さま……」
 いったん、涙を流すと、中大兄は速田にすがりつくのにためらいはなくなった。ただ、速田に行ってほしくなかった。あまり大きくない速田の身体におおいかぶさるようにして、中大兄は泣いた。
「お願いだから、行かないで。わたしをひとりにしないで……」
「皇子さま」
 速田はつぶやくように言って、中大兄の身体を抱きしめた。そして、中大兄は、初めて触れ合わせたくちびるを通して、速田を手に入れたのだ。





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