第2章(3)
皇極三年十二月十五日午後(その1)
――蘇我入鹿、あの男を私的な場で一人にするのはまず不可能だ……。
宮に帰ったのは正午をわずかに過ぎたころだった。晩冬の冷え込みのきびしい中にも春の息吹が感じられるようになるころである。日も次第に長くなり始めていた。しかし、雪はまだ庭に残っている。
――どうやってあの男より先に行動を起こすか。
「速田。今年の春は、……」
迎えられぬかも知れぬ、そう言おうとして中大兄は口をつぐんだ。
――命など、惜しくはない。このまま生き延びて、何の意味がある……?
「どうかなさいましたか」
「いや、……」
こたえて、中大兄は改めてその舎人を見た。
中大兄に仕えてもう十四年になる。速田は、たぐいまれな忠誠心の持ち主だった。
――たった一度、この男が逆らったのは七年前だったか。
速田は、故郷の反乱に加わるために飛鳥を出ようとした。中大兄は、それを、泣いて押し止めた。
――反乱は失敗した。速田は、未来永劫故郷を失ったのだ。
やがて、速田は妻を迎え、飛鳥に根を下ろす決心を固めたようだった。
それが、かつてこの日本を手中にしていた雄族の最後の生き残りの選んだ道だった。
――……失敗か……。
もしも、同じ立場に立ったとき、中大兄はどうするだろうか?
――考えても、ムダなことだ。
クーデターが失敗すれば、中大兄の命はない。
――それで、いいのだ。
生き永らえることなど、中大兄の誇りが許さなかった。死の判決を出すのは、中大兄の母だろう。そして、それをひるがえさせるために、あの大臣が口を開く。あの尊大な男は、丁重なことばで大王に道を説くだろう。尊い血を流すのは云々……。
しかし、あの母は、決して中大兄を救いはしない。中大兄の死は、過去を葬るための最高の策なのだから。
「皇子さま……」
考えに沈んでいた中大兄に、速田がおそるおそる声をかけた。どうやら、中大兄はかすかに声を出して笑っていたらしい。
「なんだ」
「……中臣殿をお近づけになるのは、おやめになってはいかがですか」
しばらくの沈黙ののち、意を決したように速田が言った。
「……」
以前の中大兄なら、その速田の目に動揺しただろう。いまは滅んだ、男鹿に栄えた天火穂雄族の第一王位継承者・速田。北の蛮族とは思えぬ聡明な王者の貌は隠して隠しきれるものではない。速田が、そんな目をするとき、中大兄は自身の汚れた血を思い出す。
――しかし、それがどうしたというのだ。
「決して、よいことではありません」
中大兄が黙っているのに業をにやしたのか、速田がめずらしく声を大きくした。
「なぜだ……?」
問うた中大兄に、速田はこたえをためらった。今度は、速田が黙り込む番だった。
「皇子さま、茅渟宮より、お迎えが参っております」
女官の声がしたのは、そのときだった。その声に、驚いたのは中大兄ではなく、速田だった。
茅渟宮、そこには、軽が住んでいる。あの男は、遠く飛鳥を離れ、河内に住んだ。政治の中枢とはまったく縁遠いその生活を、豪族たちはひそかに喜んでいた。叔父は強力な後ろ盾こそもたなかったが、女帝の弟という血筋は次期大王を狙うことを可能にさせるからだ。
「すぐに行く」
中大兄は、こたえて、速田を見た。速田は、目を閉じ、開いた。
「いつものお支度でよろしいのですか」
答えたときには、速田は男鹿王朝の第一王位継承者ではなく、人質としてやってきた飛鳥にひとり残されたなんの力も持たない舎人の目になっていた。故郷を失い、一族を失った孤独な王者は、ここ飛鳥にはめずらしくないのだ。
「御供仕ります」
みすぼらしいといってもよいような衣服に改めた中大兄に速田が言った。その目は、いつもの哀しげな目だった。
「いらぬ」
その目が、中大兄の神経を逆撫でした。突放すように言って、庭に下りる。中大兄が行きたがらないとでも思ったのか、使いの男は軽の愛馬・如月号を連れていた。
「如月号に追いつくことはできまい。足手まといだ」
中大兄は、そう言い捨てるとその馬に跨がった。すると、鞭も当てぬうちに如月号はすぐさま走り始めた。
「皇子さま……!」
速田の声は、すぐに聞こえなくなった。
如月号は、今上の即位のときに、百済から贈られた希代の名馬だった。遠く、中華大陸の西からもたらされたその馬を、大王はその弟、軽王に与えた。その理由についてはずいぶん取り沙汰されたが、だれも本当のところはわからなかった。
――口止め料のつもりだったのだろうが……。
馬の速度はぐんぐん上がった。耳元で切る風の音が、世界と中大兄の間に膜を生じたような気さえして、中大兄は思わず、使いの者を振り返った。
その姿は、すでになかった。名馬に、名騎手。他の人間が遅れるのも無理はない。
「確かにおまえは、いい馬だ」
中大兄はそのまま、馬が駆けるに任せて茅渟に向かった。
宮は、瀬戸の海を望む高台にあった。その、やや急な坂を如月号はものともせずに駆け登り、門の前でぴたりととまった。
――この宮……。
閉ざされた門を見つめ、中大兄は考えた。
――攻めるに堅く守るに易いとはこのことだろう。
いましがた上ってきた坂をふりかえると、そこには大和川の作ったなだらかな平野が広がっている。兵をひそめる丘も谷もない。
――落とすとすれば包囲戦で兵糧攻め……。万単位の動員が必要か……。斑鳩を落とすようにはいかないだろう。
もう一度宮を見上げる。ぐるりに高い塀をめぐらせ、庭には常緑樹を植えている。昼間でも中は暗い。
怪しい呪術なども行なわれているのではないかと思いたくなるその宮で、中大兄は、幾度も軽王の相手をした。ときには手足の自由を奪われ、ときには薬を飲まされて。
『大兄皇子がこのように慰み者にされてあられもない声をあげるとは、誰も思いもせぬであろう』
事が終わっても、軽はいつまでも中大兄の身体をまさぐり続けた。髪を梳き、首筋をなで、ときには胸にくちづけ……。
『いつまで経っても少しも変わらぬな。この、白い肌といい、細い腕といい、滑らかな顎といい』
クックッ、と咽喉で笑って言った軽は、すでに老いにその身体を蝕まれているように見えた。
蹄の音を聞きつけたのか、声もかけないうちに現われた舎人は、見たことのない男だった。一言も口をきかない。あるいは、口がきけないのか。男は手真似で、中大兄を招き入れた。
舎人のもつ手明かりを頼りに、うす暗い簀子を歩む。木の影が潮風に揺れて不吉な予感をあおった。
舎人は、ある板戸の前で立ち止まり、中大兄を振り返った。小さく会釈してそれを開ける。
そこはいつも通される部屋ではなかった。
板張の小さな部屋。中央に酒肴の支度がしてあり、敷物が二枚置いてある。
ここでお待ちくださいとでもいうつもりなのか、男は一礼すると下がった。
中大兄は、一人、部屋に残された。
――一年ぶりの情事。
あの、苦痛の時が待っているとわかっていてなお、やってこなければならない。中大兄は、浮かんでくる自嘲の笑いを堪えきれなかった。