第1章(1)
皇極三年正月十三日
「中大兄皇子さまを、大王の座に」
男は、はっきりとそう言った。
常に監視されている中大兄の宮で、恐れる様子もなく、あの男はそう言った。
「ばかな」
恐れを感じないのは中大兄も同じだった。
「戦利品を、大王になど」
口元が、笑いに歪む。
――叔父は、仮にも『大兄』と呼ばれる愛人を臣下の、それもたかが中臣ふぜいに下げわたした。
悔しさが、中大兄を押し流そうとする。それを振り払おうと中大兄は挑むように、かれを抱いた男を見た。
――中臣鎌足。
すでに、きっちりと身仕度を終えたその姿には、引き裂くような激しさで中大兄を蹂躙した野性は感じられない。中大兄は、その視線を避けるように腕を上げた。そこには、赤黒い吸い跡がいくつか散っていた。
「わたしに使う阿諛追従があるなら、それをそっくり古人のところへ持ってゆくのが順当というものだ、中臣。そのための、上宮王家の抹殺だったのだろう」
それで、あの叔父が何を得るのかはわからなかったが、そんなことは、中大兄には何の関係もないことだった。
今上・天豊財重日足姫天皇の長子であっても、後ろ盾をもたない。
――蘇我の血のない体では、どんな望みも叶わない。
上げた腕をゆっくりと下ろし、中大兄はそのまま中臣を見た。
「そうでございましょうか」
男は、静かに言って、中大兄を見た。
男――中臣鎌足――は、冷酷にすら見えかねない冴々とした美貌の持ち主だった。
挑戦的ではないが、見るものの背筋を凍らせるその目。
ひるんではならないと、中大兄は自身にいいきかせた。
「ほんとうに」
ゆっくり、確かめるように言うその口調。
目の前にいる男は、ほんの半時前、大兄皇子をまるで奴卑を踏みにじるようなやり方で犯したのだった。抗うこともかなわず、中大兄はただ、きつくくちびるを噛み、爪が肉に食い込み血をにじませるほど、手を握ってその苦痛に耐えたのだ。
鎌足は中大兄のそばにくるとその上体をひき起こした。起きまいとした中大兄のささやかな抵抗など、男の力の前には針でつくほどの痛みもないのだろう、中大兄の体は、たやすく鎌足の腕の中に抱き込まれた。思わず、腕をつっぱり、大柄な体を押し退けようともがいた。
「放せ」
言った声に力はなかったが、意外なことに、鎌足は中大兄を解放した。
「叔父から、何もかも聞いているはずだ……」
中大兄は、それだけ言うと、自身の胸に散るあざに触れた。
「たとえば、……」
髪をかきあげる。
――もう、どうなろうが知ったことではない……。
男に組みしかれ、犯される。しかし、何度も何度もくりかえされたその行為に、中大兄は慣れることができなかった。
――やはり、四年前に死んでいるべきだったのだ。
なぜ、そうしなかったのか、中大兄には思い出せなかった。
「すべて伺っております」
「!」
何気ない口調で言って、鎌足は立ち上がり、きっちりと結ばれていた上着の紐を引き解いた。
――何を……。
簾ごしの冴えた月光に照らされたその体は丈高く、見上げた中大兄は夜具をかきよせ、一瞬、身を引いた。
男は、中大兄の方へゆっくりと手をのばした。
「触れるな!」
鎌足は、何も言わない。うつぶせに押さえ込まれ、貫かれた瞬間が思い出された。
「いやだ!」
その手を払いのけようとした中大兄は逆にその腕のなかに倒れこんだ。強くあごをつかまれ、なす術もなくその視線を受けとめる。
澄んだ目だった。
「すべて、伺いました。その上で、中大兄皇子さまを大王に、と申し上げたのでございます」
哀しげとさえ、言えるような、目。
「――」
中大兄は沈黙した。
しかし、それは一瞬だった。
「無理だ」
吐き捨てる。
鎌足が知っているという、その『すべて』が、いったいどこまでか、中大兄にはわからなかった。しかし、そんなことは関係ない。
ただ、無理だということだけがわかっていた。
「無理に決まっている……!」
声が震えた。
「いずれ、母は死ぬ。その時、跡を継ぐのは古人だ。山背大兄王を殺したのもそのためだ、どこに、わたしの割り込む余地がある? 第一……」
自身にいいきかせるように、中大兄は言った。他の誰でもない、中大兄こそ、誰よりもその理由を知りたかった。納得したかった。
――この体に流れている血が、本当に、とるに足らない奴僕の血なのかどうか。
「血統ならば、あなたさまの方が上でございま……」
「言うな、中臣!」
中大兄は、あごにかかっていた鎌足の手をつかむと、引き倒した。油断していたのか、鎌足の体は信じられないほどのたやすさで倒れこんだ。
「言うな……!」
――知っているのだろうが……!
中大兄は、倒れこんだ鎌足の体を、引き起こし、胸元をつかんで壁に押しつけた。
「出てゆけ……!」
あいたほうの手で板戸を指さす。怒りで、くちびるが震えた。
あの叔父が、何もいわずに中大兄を下げわたしたはずがない。鎌足は中大兄の秘密を知っているはずだ。
対するに、静かな声。
「あなたはわたくしの戦利品ではないのですか」
どこかにぶつけたのか、一筋の血を滴らせた鎌足のくちびるに微笑が浮かんだ。
「叔父ぎみ、軽王。憎くはありませんか」
その血さえ、その言葉さえなければ、その微笑は菩薩のそれとも見えた。乱れた髪が数本、その秀でた額に落ちかかっている。
「……」
中大兄はことばを失った。
――知って、いるのだ。
それは、いま改めて気づかねばならないことではなかった。
そうでなければ、叔父から中大兄を得ようとは思わなかっただろう。
男である中大兄を抱こうとはしなかっただろう。
四年の歳月、屈辱の日々。
中大兄は目を閉じた。腕からは力が抜け、つかんでいた鎌足の衣服はその指の間からすべり落ちた。
鎌足の腕が体にまわされ、柔らかく背を撫でるのを感じた。ゆっくりと、下から上へ、そして上から下へ。剥出しの肌に散るあざを、鎌足の指先は確実に探り当てる。
「甘美な誘惑だな、中臣」
ひっかくように触れられて、中大兄は息を呑んだ。
「皇子さまのお心ひとつで、大王の座を手に入れることができます」
かすかな呼吸とともに鎌足は中大兄の耳にくちづけた。
「……!」
すでに中大兄の体はその愛撫に応え始めていた。背に触れていた手が、ゆっくりと脇腹を這い上がってくる。
「そして、復讐も」
中大兄は、その言葉を、ほとんど夢現つに聞いた。