序
皇極四年六月十二日
雨が降り始めていた。
「大臣殿、ご到着です」
次第に激しさを増す雨の音にまじって、触れ係の声。
――来たか……!
上座には、阿倍氏、つづいて大伴氏。そして、かれらよりもあとにあらわれ、玉座の前に鷹揚に腰をおろした、男。
――蘇我大臣入鹿……。
その男の登場によって、明らかに空気が変わった。張りつめたとでもいうのだろうか。今、この飛鳥にこの男以上にその存在だけですべてを変えてしまう男はいない。今上でさえ、及ばぬ。まして、大兄などその眼中にはない。
――紫冠を戴き、通常であれば、剣さえも手放さない、現朝廷一の実力者。
この儀式に間に合わせるために急増された飛鳥板蓋宮は、そろいの鎧に身を固めた兵が守っている。半島からの使者を感嘆させるために、大王は費用を惜しまなかった。そのお仕着せが、有利に働いた。見渡しても、だれがだれだかすぐには見分けがつかない。その兵を味方と入れ替わらせるのはたいした手間ではなかった。
――それも、今日限りだ。
顔に茶色い顔料を塗り、警護の兵の姿を借りた中大兄は、腰に吊った剣のつかに手をかけた姿勢で、すばやく視線を走らせる。警備の最前列である、そこからは、やや遠くはあったが入鹿の席はもちろん、古人大兄皇子の席もよく見えた。その異母兄は、とうから席について、所在なさそうに手を組んだりさすったりしている。
――……忘れられた皇子に、晴れの席など必要ない。
中大兄は、半ば自嘲気味に考えた。大兄と呼ばれる以上、国事の席に連ならないわけにはいかないだろうと形ばかりの列席の要請があったが、病を理由に中大兄は辞退した。その言葉に、母はほっとしたことだろう。
しかし、それも今日かぎりだ。
――思い知るがいい。わたしは、もう、退かない。
中大兄は、あらためて、他の臣たちより一段高くしつらえられた席で、満足気になにもかもを見下ろしている蘇我入鹿を見た。
その腰に、剣はない。
目が合ったが、入鹿は中大兄には気づかなかった。無感動な一瞥をくれると、そのまま視線を正面に戻した。
――蘇我入鹿。蘇我の御曹司。
いかにもへり下ったふうを装いながら、あえて『中大兄皇子さま』と、『中』を強調して呼ぶ口調を思い出す。
憎しみが、力になるのだと、中大兄は知った。
――『皇子さまを、大王の座に』
そのことばをただ信じたわけではない。しかし、何もせず、ただ死を待つのはもうたくさんだった。
――『中大兄皇子さまを、大王の座に』
呪文のように、そのことばが中大兄のなかでくりかえされる。
――『大王の座に』