第3章(1)



皇極三年十二月十六日曙



 消耗しつくしたのだろうか、鎌足は立ち上がることすらできなかった。
 中大兄は鎌足の馬に跨がり、鎌足を自分の前に乗せ、請安の館を目指した。今宵は望月のはずだが、雪ぐもに隠れて姿は見えなかった。真っ暗な道を、左手に松明、右手で手綱を握って道をいそいだ。
 鎌足の身体は今、中大兄の手の中にある。それも、無防備に。
 たとえば、このまま置き去りにすれば、明日には凍死してしまうだろう。
 いま、中大兄は、確かに、鎌足の命を握っているのだ。
 その事実は、ある種の快感をもたらした。所有物に対する残酷さと愛情。皇子を皇子とも思わぬ男、中臣連鎌足。この不遜な男を、いまなら一ひねりにすることができる。
 ――引き裂くことも、宮に閉じ込め、だれの目にも触れさせぬことも 。
 中大兄は馬に鞭をあてた。風になびいた鎌足の髪が頬にあたる。その艶やかさが中大兄のなかに燃える炎をあおり立てる。
 馬は請安邸を目指して、ひたすら駆ける。



「皇子さま」
 請安は、訪れたのが中大兄だと言う召使の取次にあわてて飛び起きたのだろう、身仕度もそこそこという様子で中大兄を迎えた。
「いかがされました、このようなお時間に」
「いつもの離れをあけよ」
 その問いに答えようともせず、中大兄は、自分よりふたまわりも大きいであろう鎌足の身体をかろうじて支えて言った。
 馬は門の前で力尽きて倒れた。中大兄の身体もこの寒い中でうっすらと汗ばんでいる。難波からここまで馬を思い切り飛ばしてきたのだから無理もない。請安は下働きの女に湯に浸した布を持ってくるようにいいつけ、中大兄の支えているものを見た。
「これは、鎌足ではございませんか。いったい……」
 請安の目に驚きの色が浮かんだ。もっとも優秀な弟子のその無残な姿に、師は動揺したようだった。
「いらぬ詮索はするな。すぐに案内を」
 中大兄は言下に請安の言葉を断ち切ると、先に立って歩き始めた。



 離れに入ると、中大兄は鎌足の衣服をすべて剥ぎとった。
 鎌足は、どうやら意識は取り戻しているようだが、抵抗する力はまったく残っていないようだった。
 傷口をしばらず、直接に服を着せたので、固まりかけた血が衣服について剥がれたのだろう、身体のあちこちに新しい血が滲んでいる。
「おまえが、わたしを呼んだのだな」
 はやる身体を押さえて、鎌足の胸に走る傷口に舌を這わせながら中大兄が言った。鎌足の身体がわずかに動いたが、それも一瞬のことで、すぐにぐったりとしてしまった。
「低い賭だと思わなかったのか。わたしが、あの宮に行くかどうか」
 鎌足の流した血の味が口の中にひろがる。それは、なんと甘いことか。中大兄はその血の味に陶然としながら低く言葉を続ける。かすかな笑い声さえたてながら。
「低い賭のはずはないか。わたしは、大兄皇子という地位のために、叔父に逆らうことはできない。やって来ないはずはない……」
 中大兄は、ゆっくりとずりあがり、鎌足の顔をのぞきこんだ。痛みのためか、それとも他の理由からか、鎌足は小さくうめいた。
「おまえを信用したわけではない。おまえにはわからないことが多すぎる」
 右手で、鎌足の首を撫でる。
「……わたしは、おまえの、屈辱の日々に賭よう。叔父の慰みの対象であった、その日々に」
 ――まずは、クーデターを。
 ――そして、軽王を大王に。
「そして、おまえは誓え。軽王、殺さずにはおかぬ、と」
 鎌足がかすかにうなずいた。そのくちびるに、中大兄は接吻する。
「すべ……てを、得た……と、思った、とき、それ……があの男の、苦しみの始……まりと、なり……ま、しょう」
 途切れ途切れの鎌足のくちびるの動きが、中大兄のくちびるに伝わった。
「まずは、クーデターを」
 中大兄は鎌足の身体を強く抱きしめると、その欲望のもとに組みしいた。





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