有間
間人皇女が中大兄によって招き入れられたのは、飛鳥川の畔の賎家だった。ただ、それらしい外見とは裏腹に、その家は、常より深く地面を掘り下げて柱を立て、床には板が張られており、さらに、その裏は、人目を避けるように板塀で囲われていた。
「これは、なんなの、お兄さま」
間人は、その小さな頭をかしげて、笑った。それは、二十年近くも昔、まだ、処女だった間人がよく見せたもので、中大兄と通じて女になったあとにはほとんど見せなくなっていたしぐさだった。
――今の間人は、十ばかりの少女なのだ……。
中大兄は、ふたたび思い知らされる。長の年月、一人寝を強いられていた女が、やっと得た、愛するものを失って、時を逆流させた。
十一も年下の有間皇子との恋に、間人は殉じたのだ。
「お兄さま?」
顔をそむけて黙り込んだ中大兄を、不思議そうな顔をした間人が覗き込んだ。
「なんでもない。間人」
子供をあやすように、中大兄は間人を抱きしめた。有間皇子の一件以来、十も老けこんだかのように見える中大兄である。が、間人にはかつての美しい少年のように見えるのか、にっこりと笑って中大兄の額にくちづけた。
「今日のお兄さまは、いつもよりずっとお優しいのね」
間人は、中大兄の首にその華奢な腕をまわした。じっと目を覗き込む。
中大兄は、子供に特有の何もかも見極めてしまいそうな深い瞳に恐怖の念を抱いた。
かれのなかに、さまざまな打算がある。なにゆえに、間人をこの館に連れてきたのか。有間の正気を取り戻すためだ。もしも、あの少年がよみがえるならば、中大兄はすべての思いから解き放たれる。
――すべてのしがらみから解放される。
――夜な夜な訪れる悪夢に悩まされることもなくなる。
――何もかも無に帰することができる。
たとえば、かつて、あれほど執着した皇太子という立場。たとえば、――。
「間人。この家には、おまえの大好きだった男がいるのだよ」
「だあれ? お父さま?」
――『どうしてもとおっしゃるならば、お止めするまでもありません。あなたは、この国の為政者、唯一無二の存在なのですから』
不意に鎌足の声が聞こえた。
――『有間皇子を処刑しなかったのは、あなたの意志。そして、たしかに間人皇女と有間皇子は恋仲だったようですから、間人皇女の気欝の病には有効かもしれません』
――あの夜の鎌足は、いつになく不機嫌だった。
――そうだ、わたしはたしかに有間に正気に戻ってほしいと思っている。
――十九歳の有間ならば即位に何の問題もない。しかし。
――その一方で、わたしは……。
「あ……」
中大兄が、ふたたび物思いに沈もうとしたのを、間人の声が阻んだ。
「有間!」
扉を開けた間人は、一月前、目の前で有間が――正確には身代わりの奴が――死んだそのときのように、二十年の歳月を一気に取り戻したようだった。
愛するものを目にし、喜びに瞳を輝かせ、有間に駆けよる。
求めるものに向かってありったけの力で飛びつく。
「有間、有間!!」
中大兄は、そんな間人をじっと見つめていた。かつてはたしかに自分の分身だった存在が、いま、他の男を抱きしめ、ほおずりしている。
有間の反応は、それよりもずっとゆるやかだった。何度おおっても、すぐに床板をはがして、そこの砂をすくっては肩にかけ続けていた有間は、まず、不意にあらわれた自分以外のものに、視線を止めた。探るように、手をのばし、間人の髪に触れる。ぼんやりと宙に浮いていた視線が、初めて固定された。
視線が固定されてからの有間の反応は、それまでの動作がゆるやかだっただけに、急激だった。
「――!!」
声にならない叫び、間人は、それに驚いて、有間の身体をさらに強く抱きしめた。
「どうしたの、有間、わたしよ、間人よ」
しかし、有間はその声には応えず、間人の身体をおしのけようともがいた。
「――! ……、や、めろ……! 放せ、わたしを放せ!!」
それは、あの処刑の日以来、中大兄が初めて聞く有間の声だった。
澄んだ声。
澄んでいるからこそ、悲痛な甲高い声。
「有間、わたしよ。間人よ!」
間人は、さらに言う。有間の顔を覗き込む。
その瞬間。
有間は、間人の身体を信じられないほどの力で押しのけた。それは、まさに鬼人が人間をつまんで、はるかに何町も投げるに似ていた。間人の細い身体は跳ねとばされ、中大兄の身体もろとも壁にたたきつけた。
「有間」
間人の口からため息のような声が漏れた。
「大兄よ、あなたは、これ以上、わたくしに何を望むのです。あなたは、すでにわたくしを亡き者とした。わたくし自身でさえ、自分が存在しないことを知っている。それなのに、この世に引き戻してどうなさるおつもりですか。あなたは、わたくしの最後の拠り所さえ奪ったと言うのに……! それとも、あなたは、あなたが与えたあの屈辱の行為をわたくしの拠り所としろというのですか。わたくしに、あなたの遊具として、生きろ……と……!」
懐かしい、いまは失われた有間の声。
この国を導くに足る優秀な皇子。
中大兄は、そんな有間の反応を冷たく観察している自分に気づいた。
「有間、わたしよ、あなたの愛した間人よ! あなたを愛した、間人よ……!!」
間人が、有間に近づこうとした。有間の反応は素早かった。
有間は、あまり丈夫に作られていない板壁を、身体をぶつけるようにして押し破った。
外は、一昨夜からの雨で増水し、轟々と音を立てている飛鳥川。
大地を思いきり蹴って、有間は飛鳥川に身を躍らせた。
一瞬の静寂。まるで天地すらも有間を惜しんだかのような沈黙。
しかし、それは錯覚だった。いつもはせせらぎと言うにふさわしい飛鳥川、しかしその日に限っては濁流逆巻く飛鳥川が、瞬く間に有間を飲み込んだ。
水音は轟々たる流れの音にかき消され、あがったはずの水しぶきすら他の岩にあたってあがるそれと見分けがつかなかった。
中大兄は、その光景を、以前から知っているような奇妙な気分で見ていた。間人は、中大兄の手をしっかりと握り、呆然と有間を飲み込んだ飛鳥川を見つめている。
「あ、りま……」
間人のくちびるが、そう動いて、そして、それきり言葉を発しなかった。
――これだったのだ。
中大兄は、飛鳥川に目を向けながら思った。
自分でも判然としなかった、有間と間人を引き合わせた理由。
それは、かつての高潔な中大兄を立証することだった。加えられた屈辱を晴らすために、自らの汚れた身体を切り捨てること。十四歳で初めて叔父・軽王に抱かれたとき、かれは本当はそうしたかったのだ。いや、そうしたかったのだと信じたかったのだ。そのために、中大兄はもっとも屈辱的なやり方で有間を抱いた。有間が、実は皇族の血を引かぬことも告げた。実の父が、内臣・中臣鎌足だと知って、有間の精神は平衡を失ったのだ。
処刑の前夜だった。
飛鳥川の流れは、有間を飲み込んで、さらに激しさを増したように見えた。
それは、やがてやってくる嵐の予兆であったのかもしれない。
有間皇子の変の1ヵ月後のお話です。
藤白坂で殺されたのは身代わりで、実際には有間は生きていた、ということが前提になっております。
新作を書けるほど、下調べが進みませんでした……。っていうか、資料が本棚の奥底に潜んでいて(汗)。
断片でお茶を濁して、ごめんなさい。
有間皇子の変というのは大変に有名な事件だと思うのですが、おおむね、悲劇の皇子・有間が中大兄の野心に葬り去られたということになっているかと思います。うちでも、もちろんそうなんですけどね。
錯綜するKAZUMI−BRAND内の血縁関係では、有間は鎌足の子です。軽王は、不能なので(笑)。
あと、有間は、普通は額田女王との恋愛関係がクローズアップされるかと思いますが、物語の都合上、間人と恋仲になっていただいております。この辺の、出会いとか、お互いの身分を隠した恋愛とかをきちんと押さえないとわかりにくいですね(苦笑)。