藤の言霊
「……、以上でございます」
史は、一切を報告した。大津皇子が実際にやってきたこと、そして、ついに皇太子を殺すことができなかったこと、九月二十四日に罠をかけること。
――讃良皇后……。
絶世の美女とうたわれるその姿を、史はまだ一度も見たことはない。すでに、歳は四十をこえている。盛りをすぎた女は、決して人前に姿を現さない。
――それにしても……。
御簾の向こうに座っている女は、本当に人間なのだろうか。史は、ときおり動く御簾のなかの影を見つめながら考えた。
この計画、大津皇子に、草壁皇子を殺させるという、とてつもない計画を立てたのは皇后だった。
――自分の息子の命さえ、秤に乗せてしまう冷徹さ。
もちろん、その冷徹さがあって初めて、史を身近に置くということができたのだろう。
そして、草壁皇子の私臣として仕えている史を間諜として取り立てたのである。天渟中原瀛真人天皇は近江朝の重臣はことごとく遠ざけたが、それは讃良皇后の計らいだったと聞く。それなのに、近江朝をささえた藤原鎌足の息子を取り立てるとは。
史は、じっと気配を窺いながらも、最後の一言を述べた。
御簾の向こうで黙って報告を受けていた皇后は、史がそれを終えると、女官に灯りを落とすように命じた。
今宵は闇夜である。史は退出の命であると思い、立ち上がりかけた。
「そのままに」
その背に皇后のよく通る声が聞こえた。
史がふたたび腰をおろすと同時に部屋のそこここに置かれていた灯火が吹き消された。
静かに御簾が上げられ、讃良皇后が立ち上がった。
背後に並ぶ何十もの真紅の灯りに照らされて、皇后の姿は黒い影となって浮かび上がった。
「史」
皇后は、四十を過ぎているとは思えない艶のある声で言った。その声は、たしかに女が男を誘う声である。そして、何か青白い光が皇后の顔を照らし出した。
史は、息をのんだ。初めて、この女傑に直接にまみえるのである。光のまぶしさに目を細める。
――……!
やがて光に慣れた目が捉えた貌……!
奇妙な光に照らされた皇后の顔は、男の本能をゆさぶる妖しい美に満ちていた。
「美しい……」
史の口から、感嘆の声が洩れた。
「おまえになら、わかりますね? これが、日出る国の天皇なのです」
『来なさい、史』
微笑んだ皇后のくちびるが、たしかにそう動いたような気がして史は一歩を踏みだした。それに向けて、皇后の手が差し伸べられる。
かれの内部で、たしかに脈打つものがある。
「わかります。美しく、妖しい、……神……」
不確かな、まるで酔ったような足取りで史は皇后の座る台座に上った。
「皇后さま……」
史はついに、差し伸べられた讃良の手をとった。そのとき、青い光のもとがその手に触れたが、その光は冷たかった。
「史……」
讃良のくちびるが優雅な微笑みを浮かべ、史のくちびるを誘う。史は目を閉じ、誘われるままに讃良のくちびるを接吻でおおった。
ふいに、青白い光が強くなった。史は閉じた目の奥にだれか、ひどく懐かしい面影を見て思わず目を開いた。
――鬼火……?
青い炎が、部屋を光のなかに飲み込んだ。
それは、無数の鬼火だった。皇后の手にあったのも、その内のひとつにちがいなかった。
――讃良皇后さま!
史は、皇后の名を叫ぼうとくちびるを動かした。しかし、その動きは、皇后のくちびるに封じられ、言葉は、巧みな皇后の接吻に吸いこまれた。史は、自分の手が、皇后の衣の衿をくつろげ、胸に入りこんでゆくのをぼんやりと知覚した。
そのとき、史の目に、ひとりの男の顔が映った。
――! あなたは……、天命開別天皇さま……。
皇太子に、そして皇后に生き写しの美しい男の顔。それは、かつて、近江の都で権力を一手に握っていた男の顔にちがいなかった。
『来るがよい、史、――、いや、鎌足……』
深い、吸い込まれそうに低く深い声。
鬼火が史を取りかこんだ。その冷たい炎に衣服が燃え上がった。
――蒼い、炎。
青い、冷たい炎。
炎の本質に逆する現実がより史を怖れさせる。史の身体から熱が奪われ、黄泉への道が、かれの前に見え隠れする。
『か・ま……た・り……』
――いったい何だ? これはいったい何のあやかしなのだ――。
『来るのだ、鎌足、わたしとともに……。さあ……』
衣服が燃え落ちてゆく。史の身体を覆うものはもう何一つない。黄泉の入り口に見知った男がいる。白髪混じりの、あれは……。
『戻れ、史……。来てはならぬ、おまえは、藤の文字とともに、栄えよ、来てはならぬ……』
――父上!
鬼火の輝きがふいに増した。
遠くを、なにかが走ってゆく音が聞こえる。史は失われた意識のなかで、しかし奇妙に醒めている一角を感じていた。
そこは荒野であった。史は、その荒涼とした風景に懐かしさを覚えて、辺りを見回した。
二人の男が、互いに竜虎のごとくにらみ合っている。火のような目。史はその二人の名を知っていた。
今は亡き、天命開別天皇と、藤原鎌足。
なぜそう思ったかは定かではない。父親でさえ、史にとってははるか雲の上の存在だった。いわんや、天皇など、遠く見ることさえなかったのに、なぜ、今はっきりとそう断定できるのか。強いて言うならば、それは、皇太子と、史に生き写しであった。
しかし、それはさしたる理由ではない。かれがそうと見分けた理由、それは、もっと本能的なものだった。
『なぜ、わたしの邪魔をする』
『おわかりのはずです、皇子さま、あなたはわたくしに藤の言霊をお与えになった。それは、不死に連なるもの。だから、わたくしのこの世に対する影響力はあなたをしのぐ。そして、わたくしの望みは、わが一族の繁栄。だれにも邪魔はさせません。そのためにこそ、わたくしは生きたのですから』
『わたしは、おまえを愛した。おまえは、決してわたしを愛さない。わたしはおまえが欲しい、しかしおまえは決してこの手に入らない。わたしは……、だから、他のものを求めるのだ。たとえば、有間、そして、大津、藤原史。その内のだれでもよい、たった一つ手に入るなら、わたしは……』
『ご存じのはずです。それらの内のどの一つも、あなたは手に入れることはできない。こうして世を遠く離れた彼岸であってみれば、あなたは決して望むものを手に入れることはできはしない』
『いや、まだわからない。これから先もずっとおまえの血縁は続いてゆく。わたしもまた追い続ける。いずれ、わたしはおまえを手に入れるだろう。その時こそ、……』
『なぜ、あなたは……』
『おまえの残した根だ。おまえが、もしわたしの望むような男であったなら、わたしは、おまえの命を断つこともせずにすんだし、こうして果てしなく彷徨うこともなかったのだ。すべては、おまえの故だ、鎌足……!』
『なぜ……』
二人の男の風のような声を聞きながら、史は父が死んだ日のことを思い出していった。
父が死んだとき、史は十一歳だった。幼い史にも、父の死因は不可解だった。前日まで元気だった方が、急な病でお隠れになったのだ。舎人たちのうわさでは、その前夜、何者かが父を訪れたという。父は、その相手をひどく丁寧に遇し、そのお方が帰られてすぐに前後不詳に陥られ、不帰の人となった……。
――それが、天命開別天皇だったとすれば……?
史は、一瞬でそれを理解した。理解、しかし、それは理屈ではない。たとえば、皇太子がなぜあれほどまでに大津皇子に執着したのか、そして、さっき、なぜ、皇后が史を招いたのか。
「父上……!」
叫ぶと同時に、史は再び前後不詳に陥った。
「史さま、……史さま……?」
かすかに呼ぶ声に気づいて目を開けたのは、浄御原宮の皇太子つきの舎人の詰め所だった。
「お気づきになりましたか?」
呼びかけていたのは、皇太子の第一の舎人、文石小麻呂だった。
「小麻呂殿か……」
「いったいどうなさったのです。今日は出仕なさる日ではなかったとお見受けいたしましたが。それも、庭にお倒れになっているとは、驚きました」
「小麻呂殿、わたくしにまで、そんなお言葉遣いは無用でございます。わたくしとて、皇太子の私臣でしかありません」
「それは、そうでございますが、先の内大臣のご長男とうかがっておりますので……」
「落ちぶれた家でございます」
史は、笑って言った。
「そんな、……」
「それよりも、わたくしは、庭に倒れていたのですか?」
「え、ええ、倒れていたと申しますか、忽然とそこに現われたと言いますか……。どうやら、わたくしは少し酒を過ごしていたようでございます」
小麻呂の言葉はいつもよりもずっと歯切れが悪かった。
「そうですか」
小麻呂の言葉を聞きながら、史はついさっき自身を襲った怪異のことを考えていた。
――あれが、もし、本当に天命開別天皇の御霊であるならば……。
思い出すと、背筋を冷たい汗がつたった。冷たい炎の感覚が、今も史の身体の隅々に残っている。
――なんと哀れな……。あのきらびやかな近江の都に君臨した帝王が、その手で殺した臣を、死してなお、求め続けるとは……。
あれが、確かに父と天命開別天皇だったという証拠はない。しかし、史は何のためらいもなくそれを受け入れていた。かれの頭はすでに計算を始めていた。もしも、天命開別天皇がほんとうに父・鎌足を殺したということが立証できれば、何かのときに利用できるかもしれない。かつて、父が手にした栄光を、再びその手にすることを、史は夢見ていた。そのために、皇太子に近づいたのである。より、権力に近い皇子、脆弱で、不出来といわれていた草壁皇子に。
――皇子が、うわさほど馬鹿ではなかったのが誤算だったが、それもうまく転がっている。あとは、大津皇子をどう料理するか、だ……。
「史殿……」
黙り込んだ史に、小麻呂が声をかけた。
「お帰りの馬をご用意いたしましたが」
「それは、ありがたい、では、今宵はこれで失礼いたします」
もどる
おまけぐらいにしか、置くところないわ(笑)。
視点の関係で、ばっさりと切り捨てたエピソードです。
持統天皇のなまえは、もともと「うの」のほうで統一していたんですが、文字が出ないので「讃良」に統一しなおしました。他にも、ちょろちょろと、修正はした。無駄な抵抗といえば無駄な抵抗(笑)。