藤の庭



 飛鳥板蓋宮後宮、その最も奥まったところにある藤の庭。 
 雪が静かに降り積もっていく。
 もう、日がくれる。暮れ方の妖しい闇が訪れようとしている。
 女がひとり、宮の廂の端近くまで出て、立ったまま藤の棚に積もる雪を見つめている。
 高く結い上げたつややかな黒髪には金の象眼を施した柘植の櫛を挿し、花をかたどったかんざしを幾本も飾っている。ほんのりと赤い耳には翡翠と金の耳飾りがかすかに揺れている。小花の地模様を織りだした黄色の衣。それに重ねた背子は桜色の地に銀糸で雪の結晶を縫いとり、裙は、赤黄青緑白と、華麗な五色を染めだした縦縞で、それぞれの模様の境目には金糸の刺繍が施されていた。紕帯は、衣と揃いの地に、紫の花が染めだされ、端には金色の房飾りがついている。領巾は、薄く透ける白絹だ。そして、首には紅玉と白珠を交互につないだ見事な首飾りをかけている。
 これだけの飾りに包まれて、しかし、その顔はなお美しかった。色白のほっそりとした顔、額には紅で四点を描き、同じ色でくちびるを染めている。細くくっきりとした眉、切れ長の聡明そうな目。
 その艶やかな姿は、どう見てもただの女官とは思えなかった。しかし、いくら、後宮の奥庭とはいえ、高貴な女がこれほど人目につきやすい場所に姿を見せるのは誉められたことではない。
 思う間もなく、その棚と棚の間を人影が動いた。
「誰ぞ!」
 領巾を持ち上げて顔をかくしながら、女が透き通った声で言った。
「申し訳ございませぬ、迷うてしまいました」
 その一喝に怯えたのか、それとも日に日に勝る寒さのゆえか、肩を震わせ、語尾を震わせて立ち上がったのはひとりの少女であった。少女はまるで人目を忍ぶように薄い絹をすっぽりと被り、深く俯いていた。女は相手が少女であることに安心したのか、領巾をおろしながらまじまじと見た。
「女嬬か。どこの宮のものじゃ」
「葛城皇子さまの……」
「葛城皇子さまの。それならば、その小径を南に行くがよろしい」
 女はそれだけ言うと、部屋に入ろうと背を向けた。
「あの、失礼でございますが、こちらは……」
 少女は縋るように言った。
「−−間人皇女さまの宮じゃ。早々に去るがよい」
「間人皇女さまの?」
 少女の声がにわかに弾んだ。
「葛城皇子さまのお使いでまいりました。お目にかかりたく……」
「皇子さまの……? 何か証はあるのか?」
「証と申しますと……」
 少女は少し考えてから女のほうへ近付き、膝まづいてその手に持っていた文を差し出した。
 女はその文を受け取ると無造作に開いた。
「もし……! それは間人皇女さまご本人にと堅く言いつかっております」
 少女は驚いて立ち上がり、その文を取り返そうと手を伸ばした。
 女が、それを待っていたように少女の被りものをつかみ、素早く引いた。
「あ!」
 女はそれまでの高飛車で傲慢な様子とは打って変わって、明るい笑い声を上げた。それにつられるように少女も顔を上げた。
「お兄さま、いい加減になさいまし」
 その顔のひとつひとつの造作はもちろん、髪の形、衣、かんざしから飾り物に至るまで宮の女と瓜二つだった。
 中大兄である。
「いったい誰がお兄さまにお教えするのかしら。髪型や衣はともかく、かんざしから紕帯まで」
「全部、つい先刻、私が届けさせた物だろう。お前が、贈ったその日に全部身につけないと気が済まないのは知っている」
「まあ、お兄さま。それじゃ、全部ふたつずつお作りになったんですの? この、白珠の首飾りも、そういえば、この紅玉は百済からの貢物ではなかったかしら」
 女は首飾りの真珠や、紅玉を手でもて遊びながら言った。
「そんなことより部屋に入れてはくれないのか、間人」
 少女の姿をした男は口元に微笑を浮かべて言った。


 雪の夜。
 部屋の四隅には妖しく揺らめく灯火。
 それらの光に照らされて浮かび上がった兄妹は、鏡に映る影のようによく似ていた。
 中大兄はまだ少女の姿を解こうとしない。
 薄く紅をさしたその顔は、紛う方なき少女の顔である。
「お兄さまは、相変わらずきれいね。大海人なんて、もうごつごつの大男になってしまったわ」
 そういえば、弟はもう十四歳になる。そろそろ、この女宮を出てどこか別の宮に移る歳だ。
 中大兄も伊予から帰った年に当時の飛鳥田中宮から、今の宮殿に移った。そして、その翌年、父・舒明天皇が死に、母が皇位に就くと同時に中大兄の宮殿の近くに新しい飛鳥板蓋宮が営なまれたのである。
 −−あの頃は、まだ、女帝は私をいまほど疎んじてはいなかった。自分の身から皇位が離れていかなかった幸運に酔っていた。餌によって釣られた身であるとも知らずに。
 皇極女帝は女らしい女であったが、それゆえに、派手好きで虚栄心が強いことでは右に出る者がなかった。そこを付け込まれて、彼女は徐々に実子から離れて蘇我蝦夷・入鹿親子に取り込まれていったのである。御しやすい天皇、蘇我大臣蝦夷のその判断はまことに当を得たものであったわけだ。
「大海人はどうした」
「舎人と遠乗りに出かけたわ。ちっともじっとしてないのよ。でも、お兄さまがいらしたってことを知ったら悔しがるわ」
「それじゃ、今日は?」
「乳母の館に泊まるって」
「じゃ、二人っきりってわけだな」
 言うか言わぬうちに、間人が中大兄に抱き付いた。
 貪るようにくちびるを合わせる。もう、十日も会っていなかったのだ。間人の手が、中大兄のかんざしを引き抜いた。豊かな黒髪が優雅な曲線を描いて背に流れた。
「お兄さま」
 少し押し返すように中大兄が間人のくちづけを避けたのが気に入らぬのか、間人はさらに力をこめて中大兄を抱き締めようとする。
 十九歳と十六歳。
 同じ目、同じ鼻、同じくちびるを持った同じ姿の兄と妹の抱擁。
 間人の手がさらに中大兄の衿にかかる。もどかしげに寛げようとする。
 しかし、きっちりと合わせた襟元は、さらに帯紐で締められていて容易に緩まない。
「お兄さまの、意地悪」
 ついに間人は涙声で言った。
「めったに来てくれないし、蘇我大臣が、わたくしを古人大兄皇子にって」
「古人大兄に?」
 中大兄は妹を見た。
 美しい。
 確かに中大兄と同じ血を引く、その目、鼻、口。
「母上も乗り気なのか?」
「大臣には逆らえますまい」
 −−立太子工作も大詰、ということか。
「いずれ、わたくしは古人大兄皇子の妃となりましょう。−−お兄さま」
 中大兄は妹を自分から引き離すとその顔をしげしげと眺めた。
 −−この妹と、初めて身体を重ねたのはいつだったか。
 間人は、そんな中大兄をじっと、見つめている。
 −−紛れもなく、同じ血を引く妹。 
 中大兄は、間人の体を荒々しく引き寄せると、自らの身体の下に巻き込み、衣を引き剥いだ。
 間人は中大兄の下で、身体を開く。
 初めてのときから、この妹は恥じらいもなく、抵抗もなく、身体を開いた。ふくらみ始めた乳房に這わせる中大兄の手に身体を震わせ、小さく『お兄さま』と呟いた妹。中大兄は、その妹を抱くことで、蹂躙された自分自身を慰めようとしたのだった。
 しかし、それは、中大兄にとって、その立場を危うくする両刃の剣でもあった。
 允恭天皇の昔、その太子・木梨軽皇子と同母妹・軽大郎女の例もある。
 彼自身、この妹を手放さなければならないのは百も承知なのだ。
「お兄さま……」 
 誘うように間人が囁く。やわらかく馨しい息。
 中大兄は、すべての煩わしいことを振り払うように頭を振ると、強く、妹の身体を抱き締めた。


 何も知らず、ただ身を任せる妹を、中大兄は愛した。
 汚れない、少女のままの間人。
 それは、伊予で、すべてを失った中大兄の最後の砦だった。
 −−この妹を古人大兄皇子に嫁がせる。 
 できるはずがない。
 今、この妹まで手放すには、中大兄は孤独すぎた。その上、天皇の第一皇女を得れば、古人大兄皇子の優位はさらに確実なものとなるだろう。
 −−ここでも、蘇我大臣だ。
 入鹿の堂々とした体躯が目に浮かぶ。
 切れ者といわれるだけに鋭い眼光を持った男。
 請安に、鎌足を除けば、彼に優る秀才はいないと言わせた男。
 あの男を除かなければ、確かに身動きが取れぬ。
『まずは、クーデターを』
 鎌足の考えは、正しい。それは、中大兄にもわかっているのだ。しかし、彼は鎌足を信用することができなかった。
『そして、軽皇子を大王に』
 あの男は何を見つめているのだ。
 何が、あの男に、そう言わせるのだ?


 自室に戻ったのは明け方だった。
 中大兄は夜具のうえに身体を投げ出すように倒れ込むと、そのまま寝入ってしまった。









もともとは、乙巳の中の一エピソードだったのですが、
ざっくり切り捨てたものです。でも、もったいなかったので
ちょっと、復活。


さらにおまけ

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